続・続・大学で哲学をする意味とは

antinomyカント倫理学

直近の二つの記事において、大学で哲学に触れることの意義について論じました。今回も関連する話になります。

おさらい

前回の記事において、カントがコペルニクスの姿勢を自然科学のみならず、すべての学問が取り入れるべきであると唱えていることについて紹介しました。それは、一つの視点に留まるのではなく、まったく逆の視点に立って考え、そのうえで自分なりの主体的な帰結を導く立場と言えます。

そのためカントにとって、哲学に必要であり、そのために陶冶すべき技術というのは、そのまま学問に必要であり、そのため陶冶すべき技術と重なり合うことになります。

カントが展開するアンチノミー(二律背反)の議論もその典型と言えます。アンチノミーとは、正命題と反命題のどちらについても論拠を挙げることができる命題のことです。カントは具体的に四つのアンチノミーを挙げており、それぞれ、①宇宙には時間的、空間的はじまりがあるかどうか、②世界は分割不可能な物質によつてできているのかどうか、③世界は因果律によって動いているのかどうか、④必然的な存在者(神)がいるのかどうか、になります。カントのアンチノミーは、コペルニクス的転回と違い、どちらかの命題に軍配が上がることはないのですが、結論がどうあろうと、ある命題とそれとは正反対の命題のどちらも正当である可能性を吟味するという点において共通しており、ここに学問に取り組む上での思考法の雛型を見てとることができます。

また前回の記事では、なぜそのような考え方(学問的スキル)が重要となるのかという話もしました。一方の意見にしか耳を貸さずに判断を下してしまうと、事態を正確に把握することができずに、判断を誤ってしまうためです。カント自身は、一つ眼の巨人は対象を正確に把握することができない、という言い方をしています。

コロナ禍において

このような学問的スキルは、今のようなコロナ禍において一層重要さを増すのではないかと私は捉えています。というのも、コロナウイルスの蔓延によって、まさに個々人が主体的に考え、判断を下すことが求められているためです。

カントは論文「啓蒙とは何か」において、人は命令や指示などを下す側と、それを受ける側とに分けられるという話をしています。前者は例えば医者、軍人、聖職者であり、後者は患者、一兵卒、信徒などです。そして、前者は後者を愚鈍にしておきコントロールしようとし、後者の方も前者に任せて気楽にいようとする、これまた悪い傾向があると言うのです。

とりわけ、新型ウイルスであるコロナウイルスに関しては、専門家ですら分かっていないことが多く、また、いかなる対応をすべきかということは日々の生活に密着した問いであり、まさにひとりひとりが真剣に対峙し考えなければならない問題と言えます。

しかし、もしある人が学問的スキルを欠き、一方の情報を得た時点でそれを鵜呑みにしてしまう、もしくは、意図的に偏った情報しか集めようとしないようでは、判断を誤る可能性が高まってしまうのです。

反対に、学問的スキルを駆使して、一方の意見を真に受けるのではなく、それが誤っている可能性についても吟味し、別の立場についても耳を傾けることによって、そして、どちらにより分(ぶ)があるのか吟味することによって、バランスの取れた帰結を導ける可能性が高まるのです。

まとめ

前回の記事では小学校でアルバイトしていたときの経験談を紹介しましたが、ここではもうひとつ別の経験談について話したいと思います。

日本に住んでいたときに、ドイツ語の語学学校に通っていたことがありました。そのクラスのなかにAさんという人がいて、環境保護などの活動を熱心にしていました。ドイツ語を勉強しているのも、ドイツが環境先進国であるためということでした。自分の信念に従って行動することはよいことだと思います。

あるとき、そのAさんがクラスのなかで、どこかの森林を伐採するのを止めるために、署名を集めていました。みんなは求められるまま署名に応じていました。そのうちAさんは私のところにもやってきました。しかし、私は「一方の意見だけを聞いて、そちらに軍配を上げるようなことはしたくありません」と言って、署名を断りました。Aさんは引きつったような顔をしていましたが、特に何も言いませんでした。Aさんや、そのやり取りを目にした人たちは「めんどくさいやつ」と思ったかもしれません。でも、後から冷静になってよくよく考えてみたら、私の真意は伝わるはずであると信じています。

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