(new!) オンライン講座の受講生募集

4月26日(金)から、NHKカルチャーセンターでオンライン講座を担当します。カントや倫理学に対する事前知識があっても、なくても構いません。対話形式で進めるので、みなさんの理解度や関心にそって講座を進めていきます。

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自由(意思)と責任について

free Will カント倫理学

ハーバード大学の教授が、いわゆる「慰安婦」を「売春婦」と結論付ける論文を発表し、それが賛否両論を巻きおこしています。

この種の議論では、しばしば本人の意思の有無が問題となります。女性が本人の意思でそうなったと受け取る側は「売春婦」というラベルを張り、反対に、彼女たちが自分の意思ではなくそうさせられたと受け取る側は「性奴隷」と表現するのです。

しかし私の目には、人の自由意思が100か0のどちらかであるとの前提とした上で、無理やりどちらかに押し込もうとしているように見えるのです。

政治レベルの話に限らず、同様のことは哲学や倫理学に(こそ)よく見られ、例えば、性善説に立つか、性悪説に立つかといった議論はその典型と言えます。どちらかに無理やり押し込もうとすれば、容易に異論の余地を生むことになります。

当事者として

私は以前、ドイツ国内の二つの大学で掛け持ちで授業をしていたことがありました。その二つの大学が550キロも離れていたのです。日本で言えば、東京から兵庫県の明石くらいの距離です。

片道で7時間から8時間かかります。交通費も(当然)結構な額になります。電車のチケットを買ってあったのに、突然会議が入り、チケットを買い直す羽目になったこともありました。教授に「こちらにも予定があるので、いきなり「今から会議です」と言われても困ります」と言っても、睨みつけられて「では会議をはじめましょう」と言われて、スルーでした。

夏休みや春休みといった長期休暇の際には定期的に電話番を頼まれました。契約書にはそんなことは書いてありませんでしたが、「みんながやっているから」ということで、拒否する権限などありませんでした(ちなみに、そこでいう「みんな・・・」は大学のそばに住んでいるわけです)。電話番のために東京から明石まで出勤するなんて話は聞いたことがないと思います。

その職場に採用されたときはうれしかったですし、その期間そこで働けたことに対しては今でも感謝をしています。しかし、他の仕事はさらに条件が悪いから、ある意味仕方なくその仕事に就いたのであり、そこで「自分で決めたことだろ」と言われても、私は承服することができません。

いわゆる「慰安婦」問題に絡めて

話を冒頭の「慰安婦」の話に戻しますと、戦時中の女性の置かれた状況は、そのときの私なんかよりも、もっと厳しかったはずです。そんな彼女たちを指して、「本人の自由意思」と表現するのは、不適切だと思うのです。

さらに言えば、彼女たちひとりひとりで事情は違うはずなのです。なかには本当に自由意思の人もいたかもしれませんが、親に売られた人や騙された人もいたでしょう。ただ多くは、その中間に位置し、他にまともな選択肢がなく、仕方なく応募したというのが実情なのではないでしょうか。 

本来はひとりひとりに目を向け分析しなければ自由意思の程度など推定できないはずなのです。それを怠り、彼女たちすべてを一括りにして、「自由意思で決めた売春婦」か、もしくは、「自由意思を認められなかった性奴隷」として、どちからに押し込めようとするのは、あまりに乱暴であり、無理があるのではないでしょうか。

カントに絡めて

この理屈はカントの思想からも導くことができると私は思っています。彼はある倫理学講義のなかで、責任と自由の関係について、以下のように述べています。

帰責の度合いは自由の度合いに左右される。(カント『コリンズ倫理学講義』)

先ほども触れましたが、自由の度合いというのは100か0かではなく、そこには程度というものがあるはずなのです。劣悪な環境にあり、選択肢がほとんどないようであれば、それはまさに自由の度合いが制限されていると言えます。自由が制限されている以上、そこでなされた責任は、それだけ少なく見積もられることになるはずなのです。

行為が自由から生じることが少なければ少ないほど、行為の責任はそれだけ少なく見積もられるべきである。(カント『コリンズ倫理学講義』)

そこでカントが挙げる例を紹介すると、食べる物に困っていて、このままでは餓死してしまうような状況で、食べ物を盗んだ場合、その人のうちでは自由は著しく制限されていたのであり、そのため責任の度合いはその分、少なく見積もられるのです。生きるのに精一杯であった戦時中の朝鮮半島の女性たちはこれに違い状況にあったと言えるのではないでしょうか。たとえ本人が決めたことであったとしても(「はい」と言ったとしても、そこにサインがあったとしても)、そうせざるをえなかった状況下にあったのであれば、そこに「自由意思があった」などと表現すべきではないでしょう。仮に「まったく自由意思がなかったとまでは言えない」ということであれば、「制限的」「部分的」などといった断りを入れ、それが十全なものではないことを明確に(より正確に表現)すべきだと思うのです。

さいごに

現在はコロナ禍にあり、心理的、経済的、さまざまな面で悪影響が出ており、人々の自由の度合いが相対的に下がっていると言えます。こういったときだからこそ、相手がどのような立場にいるのかということに関心を払うべきなのではないでしょうか。頭ごなしに「自分で決めたことだろ」「自己責任」などといった(乱暴な)言い方で他者を批判する(追い込む)ような態度は慎むべきだと思うのです。