カントは理論と実践は一致すべきことを説いています。では実際にカント倫理学はどの程度、現実への適用に耐えられるのでしょうか。
哲学を学ぶとは? 哲学することを学ぶとは?
「どうしてもカントを理解したい」という発言を耳にすることがあります。でもなぜその人はそんなにカントを理解したいのでしょうか。単なる知識欲でしょうか。自分が理解できないことが悔しいのでしょうか。どちらにしろ自分のなかに閉じた問題意識ですよね?カントが聞いたら何を言うだろうか、考えてみてほしいと思います。
学問の有用性について
学問とは世の中の役に立つものでなければならないのでしょうか。ノーベル賞受賞者である大隅良典教授やカントの言葉をヒントに考えてみたいと思います。
マンガ『キャプテン』
『キャプテン』という野球マンガがあります。別に特別おもしろいというわけではないのですが、学ぶことの多い、いいマンガだと思います。
耐性を欠く倫理学説ってどうなの
ある倫理学の理論について、「現実への適用に一切耐えられないけれどすばらしい倫理学説」などと言明が成り立つのでしょうか。現実への耐性はむしろ学問としての必須の要件と捉えるべきでなのではないでしょうか。
カントは外科手術に対して何を語っているのか
カントは200年以上も前に死んでいますが、当時、臓器移植というものがあったのでしょうか。あったとすれば、それはどのようなものだったのでしょうか。カントはそれに対して何か言っているのでしょうか。
やはり倫理的に振舞うよう努めるべきなのでは?
同情心からの行為が倫理的善であると言うのであれば、同情心が湧いてくるような環境を自ら作り出そうと努力すべきなのではないでしょうか。それができない理由とは何なのでしょうか。私には理解ができません。
ショーペンハウアーにとっての倫理的善、そして、倫理学という学問
ショーペンハウアーは同情心からの行為に倫理的価値を見出します。しかし他方で、それは努力してできるものではないとも言うのです。だとすると、彼の理論、そして倫理学という学問そのものに、どのような意義を見出すことができるのでしょうか。
私たちは倫理的義務を常に履行し続けなければならないのでしょうか?
もし私たちが常に倫理的義務を履行するよう努めなければならないとすると、自身の幸福を追求することを許す余地がなくなってしまうことになるのではないでしょうか?もしそうだとすると、それはあまりに禁欲的で、厳格なのではないでしょうか?
カントの反論
カントは「自分の行為の動機ですら知りえない、そのため利他的に振舞ったつもりでも、実際には利己心が潜んでいるのである」という批判にどう反論するのでしょうか。
利他的に振舞うことなど本当にできるのか
ショーペンハウアーは自身の動機ですら知りえないのであり、善意志から行為したつもりであっても、それは所詮「つもり」に過ぎず、実際には利己的に振舞っていると主張するのです。