私たちはどれだけ
哲学を学ぶとは? 哲学することを学ぶとは?
「どうしてもカントを理解したい」という発言を耳にすることがあります。でもなぜその人はそんなにカントを理解したいのでしょうか。単なる知識欲でしょうか。自分が理解できないことが悔しいのでしょうか。どちらにしろ自分のなかに閉じた問題意識ですよね?カントが聞いたら何を言うだろうか、考えてみてほしいと思います。
カントの誤謬論
前回の記事では、カントの思想の根幹に、理性には限界があり、どうしても誤りを犯してしまうものであるという前提があるという話をしました。彼は他方で、誤謬、それもひどい誤謬のうちにも、必ず真なる部分があるはずであるとも言うのです。興味深くないですか?
部活動の閉鎖性について
なぜ秀岳館高校サッカー部で起きたような不祥事が起きてしまうのでしょうか。カントの言葉を頼りに考えてみたいと思います。
説明しない理由が思い浮かばない
判定に不服そうな佐々木朗希投手に白井一行球審が詰め寄りました。彼はタイムをかけたのでしょうか。何が気に食わなかったのでしょうか。あの対応が適切だったと考えているのでしょうか。自ら口を開かないのであれば、見ている方は何も分かりません。興行であるはずのプロスポーツとして、それでいいのでしょうか。
人間は自分が信じたいものを信じようとする悪い傾向がある
ロシア人の多くは海外にいる家族からロシアがウクライナに侵攻していることを聞かされてもそれを信じないのです。つまり家族の言葉よりも、政府のプロパガンダ情報の方を信じるのです。これには私自身衝撃を受けました。このような強烈なプロパガンダに対抗するにはどうしたらよいのでしょうか。
ワクチンに対するカントの立場
二百年以上前のカントの晩年には、すでにワクチンというものが存在していました。天然痘に対するワクチンです。それについてカントが言及している箇所もあるのですが、それはどんなものなのでしょうか。はたしてそれは今日私たちが直面するコロナワクチンに対する議論の参考になるのでしょうか。
反ワクチン派の人々への対処について
カントは万人に理性が備わっており、誰にでも考え、そして、まともな結論を導く力があるはずであると説きます。しかし、現実を見てみると、ワクチンの効用を絶対に認めようとしない人たちがいます。彼らを理性的なやり方で説得することなど本当にできるのでしょうか。
なぜワクチンを打たないのか
バイエルン・ミュンヘンのキミッヒ選手はワクチンをまだ打っていないことを告白しました。そして、その理由についても語ったのですが、その説明というのが非常にまずいものでした。そのため彼は大きな批判を受けています。彼の発言のどこに、どのような問題があったのでしょうか。ここに分析してみたいと思います。
「勇気を持て」という言明に意味はあるのでしょうか?
アリストテレスは「勇気」を徳目のひとつと見なします。しかし、人は何を持って、そこに「勇気」を見出すのでしょうか。というのも挑戦することが「勇気」と言われる場合もあれば、反対に、引き下がることを「勇気」と表現することもあるためです。つまり、いかようにも解釈できてしまうためです。はたして「勇気を持て」と言うことにどれだけの意味があるのでしょうか。
はたして結果至上主義と教育は両立するのでしょうか
1992年、星稜高校の松井秀喜選手が五打席連続で敬遠されるという出来事がありました。そして、そのことが社会的な議論を巻き起こしました。はたしてこのような結果至上主義の作戦と教育は両立するのでしょうか。敬遠の指示を出した馬淵監督の言明を頼りに考えてみたいと思います。