考える力を伸ばす

私たちはどれだけ本当・・に自分の頭で考え、決断を下し、行動しているのでしょうか。実際には(自分が思っている以上に)周りに流されたり、不思慮に振舞ったりしているのではないでしょうか。その問題点、そして、そこから抜け出る筋道についてカントを頼りに考えて・・・いきたいと思っています。

カント倫理学

決めつけは思考の怠慢なり

カントは他人の道徳性は知りえないと言います。この点はカント倫理学の欠点なのでしょうか。私はむしろ他人の道徳性まで決めつけようとするその怠惰な態度の方が批判に値すると思っています。
カント倫理学

カント自身は自身の考えについてどれだけ理解していたのか

「分かる」と「分からない」の間に線引きなどできるのでしょうか。他人の考えのみならず、自分の考えですら、「分かる」と「分からない」の間には線引きなどできないのではないでしょうか。だとすれば、カント自身も、自らの哲学であり、倫理学に関して、実はよく分かっていないということがありうるのではないでしょうか。
カント倫理学

良心の役割

カントは良心の働きについて、内的な法廷における原告の役割を担うものとして説明します。しかし、同時に、裁判官の役割も担うと言うのです。原告と裁判官が同一人物というのは問題ないのでしょうか。またカントは、理性が原告と裁判官、感性が被告の役割を担うと言います。しかし、理性と感性の間に本当に線引きなどできるのでしょうか。これらの疑問に対峙しながら(カントの考える)良心の役割について明らかにしていきたいと思います。
カント倫理学

利己性の危険性について

一般的には利己性とは自身の幸福に資するものと思われているかもしれません。そのために、ある種の利己性を抑制することを説くカント倫理学は「厳格すぎる」「禁欲的」と揶揄されてきました。しかしそもそも、本当に利己性とは自身の幸福に資するものなのでしょうか。
カント倫理学

続・続・大学で哲学をする意味とは

学問的スキルとは、学問の世界のみならず、一般世界でも必要となるのですが、今のコロナ禍においては、その重要性がより一層増していると言えます。なぜそう言えるのか、本論において明らかにしていきたいと思います。
カント倫理学

続・大学で哲学をする意味とは?

哲学をするにしても、大学の学部レベルでは、先哲の教えを理解することで十分(自分の主体的な意見をそこに反映させるのは大学院に行ってからでいい)という意見があります。しかし、そこでなされる営みというのは、そもそも本当に「学問」と言えるのでしょうか。
カント倫理学

大学で哲学をする意味とは?

同僚が「学部生のレベルでは自分の主体的な意見を求める必要はない」「それは過大な要求」と述べていました。本当にそうなのでしょうか。先哲の教えを首尾よくまとめることができるようになれば、それでいいのでしょうか?
カント倫理学

審判の説明義務について

なぜブンデスリーガの審判は自分の裁いた試合の判定の根拠について口にしないのでしょうか。メディアは話を聞こうとするはずであり、出てこないということは、上(ドイツサッカー協会か審判組織?)が止めているのか、本人が嫌がっているのだと思います。しかし、そんなことをすることにどんなメリットがあるのでしょうか。私は負の側面の方が大きいと思っています。
カント倫理学

奪われた感

私たちはコロナウイルスによってさまざまなものを奪われました。そのはけ口をどこかに見出したいと思うのは自然な感情だと思います。しかし、それに流されて犯人捜しや、悪者探しをしていても何も解決しません。これからに向けて、今すべきこととは何なのでしょうか。
カント倫理学

続・コロナウイルスとの向き合い方について

世の中には、コロナウイルスの存在を認めようとしない人、そのため、まったく対策をとろうとしない人たちがいます。どうして彼らはそう考えるに至ったのでしょうか。カントの言葉を頼りに人間の内面について分析してみたいと思います。
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