カントと人種差別

black lives matterカント倫理学

前回の記事では、現在では奴隷制度は廃止されているはずなのに、世界には未だに奴隷のような扱いを受けている人々がたくさんいるという話が出てきました。アメリカで奴隷制が全廃されたのは1865年です。それなのに、彼らの子孫の多くは今でも教育を受ける上でも、就職に関しても不利な状況にあるのです。

仮にどこかに応募した際に、白人と能力的には変わらなかったとしても、それどころか黒人の方が能力的には勝っているとしても、黒人の方は黒人であることを理由として落とされるということがあるのです。そのため、彼らは劣悪な環境下の仕事でも、簡単に「辞めます」「転職します」とはいかないのです。奴隷のような扱いでも、歯を食いしばって、頑張らざるをえないのです。

そして、街中を歩いていれば、これもまた黒人であることを理由として、警官から職務質問されたり、暴力を振るわれたり、最悪の場合、殺されてしまったりするのです。先日もジョージ・フロイトが警官に殺され、それによって大規模な抗議活動が行われました。

人種差別の問題は定期的に吹き出し、永遠に終わりがないかのような印象を私たちに抱かせます。

なぜ人は差別をしてしまうのでしょうか。

カントは差別に関することとして、以下のようなことを述べています。

他人を軽蔑すること、すなわち人間一般に当然払うべき尊敬を他人に対して拒むということは、彼らが人間である限り、いずれにしても義務に背いている。彼らを他の人々と比較して、心の中で軽視することは、確かに往々にして避けがたいことである。しかし、その軽視を露骨に表に現すことは、はやり侮辱である。(カント『人倫の形而上学』)

カントは他人を軽視することは仕方のないことだとしています。カント倫理学の性格に鑑みれば、必然的帰結と言えます。というのも他人を軽視するかどうかというのは感情の問題であって、いかなる感情を持つかということは自分ではどうすることもできない事柄だからです。それ自体は悪いことでも何でもないのです。

避けるべきことは心の中で他人を軽視することではなく、それを口に出してしまうことなのです。思ったことを口に出すかどうかは、理性によって、そして、普遍化の思考実験によって、吟味を加えることができます。もし他者を侮辱するような内容であれば、それを口に出すようなことは慎むべきことは明らかであると思います。

人種差別主義者カント

ここまでの話は、カントが差別される側に立って、いいことを言っているように映るかもしれません。しかし、それは一面的な評価と言えます。カントのなかにも負の側面があるのです。

カントは至るところで、白人以外の人種を不当に低く評価する言動を繰り返しているのです。例えば、黒人は白人よりも能力的に劣り、アメリカ先住民はその黒人よりも、さらに劣ると言われているのです。また、太平洋の島の人々は、そもそも自分の能力を磨くつもりのない、怠け者として描かれています。

もっとも、このような差別意識は、カントに限ったことではなく、当時のヨーロッパの知識人が一般に持っていた意識であるとも言えます。

私たちが学ぶべきこと

私はカントの態度を前にして、「カントの限界」という一言で片づけてはいけないと思うのです。なぜなら今現在、私たちはカントと同じことをしているからです。

カントも他人を軽視するような言動は慎むべきと言っているのです。それなのに、実際には堂々と他人を軽視する発言をしてしまっているのです。現代に生きる私たちも同じなのではないでしょうか。つまり、誰もが他人を軽視するような発言はすべきでないと言うはずです。しかしながら「自分の発言が差別と受け取られたことなど一度としてない」と言い切れる人がいるでしょうか。いないはずなのです。

もし、「いや、私は絶対に差別などしない」などと言い切る人がいるとすれば、私はそういう人ほど危険であると思っています。というのも、受け手がどのように受け取るかということは、発言した側には本来分からないはずであり、その分からないはずのことを、分かるはずであると思い込んでしまっているからです。もしくは「発言している私に差別の意識がなければ差別にはならない」とでも考えているのでしょうか。だとすれば、これも勘違いです。差別かどうかは自分にその意図があるかどうかによってではなく、受け手がどう受け取るかによって決まるものだからです。

こちらのそのつもりはなくても、それどころか、それがいけないことであるという自覚があり、細心の注意を払っていても、それでも差別と受け止められてしまうことがある。ここにこの問題の難しさがあるのだと私は思っています。

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