(new!) オンライン講座の受講生募集

4月26日(金)から、NHKカルチャーセンターでオンライン講座を担当します。カントや倫理学に対する事前知識があっても、なくても構いません。対話形式で進めるので、みなさんの理解度や関心にそって講座を進めていきます。

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カントと人種差別

black lives matter カント倫理学

前回の記事では、現在では奴隷制度は廃止されているはずなのに、世界には未だに奴隷のような扱いを受けている人々がたくさんいるという話をしました。アメリカで奴隷制が全廃されたのは1865年です。それなのに、彼らの子孫である多くの黒人は今でも教育を受ける上でも、就職に関しても不利な状況にあります。

仕事に応募した際に、白人と能力的には変わらなかったとしても、それどころか黒人の方が能力的には勝っているとしても、黒人の方は黒人であることを理由として落とされるということがあります。そのため、彼らは一度仕事にありつけたならば、劣悪な環境下でも、簡単に「辞めます」「転職します」とはいかないのです。奴隷のような扱いでも、歯を食いしばって、頑張らざるをえないのです。

そして、街中を歩いていれば、これもまた黒人であることを理由として、警官から職務質問されたり、暴力を振るわれたり、最悪の場合、殺されてしまうのです。先日もジョージ・フロイトが警官に殺され、それによって大規模な抗議活動が行われました。

私自身もドイツに住んでいると、よく職務質問されます。「見た目からして外国人だからかな?」と思うことはあります。別にぞんざいに扱われたことがあるわけではないので、「またか」と思うくらいで、それほど気にはしません。

私が「なんだこいつら!」と思ったのはロシアでのことです。カントの生地であるケーニヒスベルクは、現在はロシア領で、カリーニングラードという名前になっています。ロシアの飛び地であり、最西端にあり、辺境の地と言えます。そこに学会発表で訪れたことがあるのですが、その際に町を歩いていて、警官らしき二人に呼び止められました。パスポートを見せるように言うので、見せると、彼らはパスポートに書いてある私の名前を音読して笑い出したのです。ソビエト時代は外国人立ち入り禁止の地域で、未だに外国人などあまりいない(誰も来たいとなど思わないような)土地柄です。私のことが珍しかったのでしょう。向こうは私のことを笑いましたが、私は正直「こいつらとんでもない田舎者だなぁ」と思いました。

少し話が逸れてしまいましたが、もっとも根深いアメリカのみならず、私が現在住んでいるドイツでも、また故郷である日本でも、人種差別の問題は定期的に吹き出します。今回はこの問題について考えてみたいと思います。

なぜ人は差別をしてしまうのでしょうか。

カントは差別に関することとして、以下のようなことを述べています。

他人を軽蔑すること、すなわち人間一般に当然払うべき尊敬を他人に対して拒むということは、彼らが人間である限り、いずれにしても義務に背いている。彼らを他の人々と比較して、心の中で軽視することは、確かに往々にして避けがたいことである。しかし、その軽視を露骨に表に現すことは、はやり侮辱である。(カント『人倫の形而上学』)

カントは、心のなかで他人を軽視してしまうことは仕方のないことだとしています。カント倫理学の性格に鑑みれば、必然的帰結と言えます。というのも、他人を軽視するかどうかというのは感情の問題であって、いかなる感情を持つかということは自分ではどうすることもできない事柄だからです。それ自体は悪いことでも何でもないのです。

避けるべきことは、他人への軽視の感情を表に出してしまうことなのです。そのことは、普遍化の思考実験を用いてみれば、明らかだと思います。「私は他人を軽視する」という行為原理をみんなが則る世界が望ましいものであるとは思えないはずだからです。つまり、この点もカント倫理学から必然的に導かれる帰結と言えます。

人種差別主義者カント

ここまでの話は、カントが差別される側に立って、いいことを言っているように映るかもしれません。しかし、それは一面的な評価と言えます。カントのなかにも負の側面があるのです。

カントは至るところで、白人以外の人種を不当に低く評価する言動を繰り返しているのです。例えば、黒人は白人よりも能力的に劣り、アメリカ先住民はその黒人よりも、さらに劣ると言われているのです。また、太平洋の島の人々は、そもそも自分の能力を磨くつもりのない、怠け者として描かれています。

もっとも、このような差別意識は、カントに限ったことではなく、当時のヨーロッパの知識人が一般に持っていた意識であるとも言えます。

私たちが学ぶべきこと

このようなカントの態度を前にして、「カントの限界」という一言で片づけてはいけないと私は思うのです。なぜなら今現在、私たちはカントと同じことをしているからです。

カントも他人を軽視するような言動は慎むべきと言っているのです。それなのに、実際には堂々と他人を軽視する発言をしてしまっているのです。現代に生きる私たちも同じなのではないでしょうか。つまり、誰もが他人を軽視するような発言はすべきでないと言うはずです。しかしながら「自分の発言が差別と受け取られたことなど一度としてない」と言い切れる人がいるでしょうか。いないはずなのです。

もし、「いや、私は絶対に差別などしない」などと言い切る人がいるとすれば、私はそういう人ほど危険であると思っています。というのも、受け手がどのように受け取るかということは、発言した側には本来分からないはずであり、その分からないはずのことを、分かるはずであると思い込んでしまっているからです。もしくは「発言している私に差別の意識がなければ差別にはならない」とでも考えているのでしょうか。だとすれば、これも勘違いです。差別かどうかは自分にその意図があるかどうかによってではなく、受け手がどう受け取るかによって決まるものだからです。

こちらのそのつもりはなくても、それどころか、それがいけないことであるという自覚があり、細心の注意を払っていても、それでも差別と受け止められてしまうことがある。ここにこの問題の難しさがあるのだと私は思っています。