前回の記事では、人が道徳判断を誤ることがありうるかどうかうかについて吟味し、その可能性を否定しました。その議論のなかで良心の役割についても触れましたが、メインテーマであったわけではなく、具体的なところまでは踏み込みませんでした。
ここで改めて、カントの説く「良心」に焦点を当て、その役割について明らかにしていきたいと思います。並行して、そこに投げかけられてきた批判についても取り上げていきます。
法廷としての良心
カントは良心の働きについてしばしば法廷と絡めて論じます。どういうことかというと、感性的な側面が被告となり、理性的な側面が原告となり、やり取りするのです。マンガなどによく見られる、自分のなかにいる悪魔と天使が交互に言い合うようなシーンをイメージすると分かりやすいかもしれません。
これは誰しもが経験することだと思います。私などは毎晩のように感性が「何か食べたい」「甘いものが食べたい」と欲し、理性が「いやいや、寝る前に食べるのはよくない」と声を発するのです。
原告と裁判官が同一人物でよいのか
ただ、カントの説明のうちには一見すると不合理に見える点もあります。それは彼が、理性の側が(原告のみならず)裁判官の役割も担うと説明している点です。
現実の法廷(外的な法廷)では、原告と裁判官が同一人物などということはありえません。なぜなら現実の裁判(外的な法廷)では、裁判官が原告と被告の両方の言い分のどちらに理があるか客観的な立場から判断を下さなければならないためです。
他方で、カントに言わせれば、先ほどの例に絡めると、悪魔(感性)の言う「騙してしまえ!」という声と、天使(理性)の言う「騙すなんてよくないよ!」という声のどちらが(倫理的に)正しいかということは明らかなのです。そのため、原告と裁判官が別人である必要はないのです。
ちなみに、カントの母語であるドイツ語では、良心はGewissenという語になります。Geは「共に」、Wissenは「知る」という意味です。ラテン語(consientia)や古代ギリシャ語(σονειδησις)でも同じことが言えます。原告も裁判官も、「共にどうすべきか知っているはず」なのです。
理性と感性の線引きの問題
良心を巡る問題は、理性と感性のせめぎ合いとも言えます。
私自身が大学のゼミで、カントについて話をしていると、よく聞く異論のうちのひとつに、理性・感性の二元論に対する批判があります。具体的には以下のようなものです。
もし理性と感性の二元論が成り立たないのであれば、カントの良心論どころか、そのことを前提に組み立てられているカント倫理学であり、延いてはカント哲学全般が瓦解することになります。
このような批判に対して、世界的に有名な日本のカント研究者である(そして私にとって大学の先輩である)石川文康は以下のように説明します。
コーヒーにミルクを入れれば、コーヒーだけでもない、ミルクだけでもない、第三の状態がそこにあるのです。その状態では、もはやどこがコーヒーで、どこがミルクなのか分かりません。それでもそこには依然としてコーヒーとミルクが未分化ながらも紛れもなく存在しているのです。
しかし、私はこの説明はあまりうまくないのではないかと思っています(天国の石川先生すみません…)。これでは、どこがコーヒーでどこがミルクか、結局分からなくなってしまうからです。どこが理性でどこが感性なのか分からないのでは具合が悪いでしょう。
私なら別様に説明します。――世の中には明確な線引きができないものなどいくらでもあります。例えば「成人年齢」なるものがありますが、それは法律によって恣意的に定められたものであり、実際には「子供」であったものがある日突然「大人」になるわけではありません。「子供」は徐々に「大人」になっていくのです。
「男」と「女」なんかも、同じ構図が当てはまると言えるでしょう。誰もがその中間的存在の人たちがいることを知っています。それでも、私たちは「男」や「女」といった言葉を用いて生活しているのです。
もし「それがけしからん(明確な線引きのできない概念を使うな)!」という人がいれば、「ではあなたは一切使わないのですね?」と返せばいいのです。そんな人はひとりもいないはずなのです。なぜなら、私たちの周りは(「男」と「女」、「大人」と「子供」、「理性」と「感性」といった)厳密には二つに分けることのできないものであふれているためであり、それを区別する概念を用いてはいけないなどと言い出したら何も言えなくなってしまうためです。
「明確な線引きがない二つの概念」から「その概念を使ってはならない」を導くのは飛躍であり、本来は出てこない帰結なのです。
結局、良心の働きとは
良心の働きについて、先ほどからの例に絡めてまとめると、感性が「騙してしまえ」と言い、理性が「いや、騙すのはよくない」と言う場合に、良心の法廷(内的な法廷)が開廷するのです。とはいえ裁判官である理性は結論は分かっているのです。そのため裁判官のすべきこととは(判断を下す必要はなく)、ただ「確信」という、お墨付きを与えることなのです。
あらゆる可能な行為について、それが正しいか正しくないかを知ることは必ずしも必要なことではない。しかし、私がなそうとしている行為は、私はそれが不正でないことを判断し、思念しなければならないだけでなく、それをまた確信もしなければならない。(カント『単なる理性の限界内の宗教』)
もし道徳判断が客観的な正しさを前提とするならば、そこには「正解」「不正解」が存在することになります。主観的な正しさとの齟齬が生じる可能性があることになるからです。しかし、カントはそう考えておらず、道徳判断は主観的な確信さえあれば、それで十分と主張しているのです。それが主観的なものであるために「正解」「不正解」が問題になりえないのです。
ただ、ここで以下のような疑問が生じるかもしれません。
このような疑問が延いては、とんでもない行為を道徳法則と見なす者が現れることへの危惧にも結びつくことにもなるのです。私たちはどのように考えたらよいのでしょうか。
カント倫理学は主観的なのか
先の疑問(つまりカント倫理学は主観的なのかという疑問)に対して、私は二つのアプローチから反論できると思っています。
1 客観性が担保された上での主観的判断が求められる
カントは道徳的善のためには、普遍化の思考実験が不可欠であることを説きます。この名前にも表れていますが、それは普遍的な視点に立って考えることが前提となるのです。つまり、主観的な正しさにたどり着くためには、まず客観的な視点がなくてはならないのです。
そのためカントの説く道徳的善に、主観的な側面があることは否定できませんが、それはあくまで客観性が担保された上でのものなのです。
2 もし客観性のうちにのみ正しさがあるとすれば
要するに、道徳的善のためには、主観性と客観性の両方が必要となるのです。
ここで、先ほどとは逆に、道徳的善が客観性のうちにしかないと想像してみます。そこでは、みんなが正しいと思ったものが正しいということになります。その「みんな」を「すべての人」としたら、それが非現実的なものであることが即座に分かると思います。世の中には様々な考え方があり、「すべての人」が同意する倫理規範など、存在しそうにないからです。例えば、殺人ですら、正当防衛や緊急避難が考えられるわけです。
もしくは、もう少し緩く理解して、「みんな」を「多くの人」としましょう。「多くの人」が受け入れられる規範であれば、現実に想定できるかもしれません。しかし、その「多くの人」が判断を誤る可能性は本当にないのでしょうか。例えば、かつては「多くの人」が、奴隷制は正しいとか、女性に教育はいらないとか、信じ込んでいた時代があるわけです。そう考えてみると、「多くの人」が正しいと判断するものが正しい、と前提することも、非常に怪しいものであることが看取されると思います。
さいごに
先ほど私は理性と感性の区別の文脈で、厳密に線引きなどできないものが世の中にはいくらでもあるという話をしましたが、主観と客観もまさにそのようなものと言えるのかもしれません。
私は、私は主観だけでも、客観だけでも、道徳的な正しさというのは導かれえないと思っています。この二つは融合させるべきもので、そのことを説いたカントの慧眼(けいがん)に私は感嘆の念を抱くのです。