(ハーバーマスに言われるまでもなく)自分の言動には誠実性が求められます。しかし、本当のことを言うと相手を傷つけてしまうことがあります。このようなモラルジレンマに陥った際に、我々はどうすればよいのでしょうか。そこに「正解」はあるのでしょうか。
ワクチンに対するカントの立場
二百年以上前のカントの晩年には、すでにワクチンというものが存在していました。天然痘に対するワクチンです。それについてカントが言及している箇所もあるのですが、それはどんなものなのでしょうか。はたしてそれは今日私たちが直面するコロナワクチンに対する議論の参考になるのでしょうか。
「勇気を持て」という言明に意味はあるのでしょうか?
アリストテレスは「勇気」を徳目のひとつと見なします。しかし、人は何を持って、そこに「勇気」を見出すのでしょうか。というのも挑戦することが「勇気」と言われる場合もあれば、反対に、引き下がることを「勇気」と表現することもあるためです。つまり、いかようにも解釈できてしまうためです。はたして「勇気を持て」と言うことにどれだけの意味があるのでしょうか。
良心の役割
カントは良心の働きについて、内的な法廷における原告の役割を担うものとして説明します。しかし、同時に、裁判官の役割も担うと言うのです。原告と裁判官が同一人物というのは問題ないのでしょうか。またカントは、理性が原告と裁判官、感性が被告の役割を担うと言います。しかし、理性と感性の間に本当に線引きなどできるのでしょうか。これらの疑問に対峙しながら(カントの考える)良心の役割について明らかにしていきたいと思います。
オリンピックのゴタゴタを見て、カントは何を言う
良心が誤りを犯すといったことがありうるのでしょうか。暴走するといったことがありうるのでしょうか。2021年東京オリンピック開催の是非を巡る議論に絡めて、カントの思想を頼りに、この問いに対峙してみたいと思います。
みんながそれをやったらどうなる?
「みんなが君と同じことをしたら困ったことになるだろ」「君がその行為をするのはみんながしないことを前提にしているんだ(君は自分を例外視しているのだ)」ということを言う人がいます。しかし私は思うのです。だからなに?
今自分ができることとは
自分がすべきことを自覚しているものの、状況がそれを許さないという場合もあります。その際にカント倫理学は無力なのでしょうか。私は何もできないのでしょうか。
どうしていいのか分からないような場合、どうするべきなのか
「意志さえすれば倫理的善をなすことができる」というのは本当なのでしょうか?どうしたらいいのか分からない、そのため倫理的善をなすことができないということも起こりうるのではないでしょうか?
カントと野村克也
先日亡くなられた野村克也という人物が、なぜこれほど世間の人々から愛され、評価されたのかについて考えてみました。
あぁ、もちろんカントと絡めてですよ。「カントとヒューム」「カントとルソー」「カントとヘーゲル」などではなく、「カントと野村克也」ですよ。この離れ業を楽しんでください。
自転車泥棒に間違えられた話
私は先日、自転車泥棒と間違われました。なぜそんなことになってしまったのでしょうか。私はどうするべきだったのでしょうか。相手はどうするべきだったのでしょうか。いろいろと考えてみました。
あなたはそれでも英語を使いますか?
私はドイツで相手にドイツ語で話しかけているのに、相手が英語で返してくるということがあります。日本語を勉強しているドイツ人の多くも似たように、日本で日本語を使っているのに、英語で返されることがあると言うのです。なぜ、そんなことになるのでしょうか。