今まで哲学や倫理学に関心がなかったような人にもカント倫理学の魅力や価値が伝わるように記事にまとめていくつもりなので、お付き合いください。
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8月3日 青山での対面講座のお知らせ
私はドイツに住んでおり、日本でみなさんの前でお話する機会はそうそう持つことはできません。この機会にぜひ講座に参加して、みなさんと直接やりとりしたいと思っています。
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『人間関係の悩みがなくなる カントのヒント』
とにかくひとりでも多くの人にカント倫理学について知ってほしいと思い、ミーハーな企画に乗って、書いてみました。本当に売れるのかどうか、自分ではまったく分かりません。
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哲学を学ぶとは? 哲学することを学ぶとは?
「どうしてもカントを理解したい」という発言を耳にすることがあります。でもなぜその人はそんなにカントを理解したいのでしょうか。単なる知識欲でしょうか。自分が理解できないことが悔しいのでしょうか。どちらにしろ自分のなかに閉じた問題意識ですよね?カントが聞いたら何を言うだろうか、考えてみてほしいと思います。
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本の出版記念イベントを終えて
『いまを生きるカント倫理学』の出版記念イベントを開いていただきました。そこでテーマに挙がったこと、私が感じたことなどについて記しておきます。
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私たちは自分でも知らず知らずのうちに道徳的悪を犯しているのでしょうか?
私たちは自分でも知らず知らずのうちに道徳的悪を犯しているとするカント倫理学解釈が存在します。しかし、私はそのような解釈はカント倫理学内部に深刻な矛盾をもたらすと思っています。そこにはいかなる問題があるのでしょうか。
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純粋な形式的記号操作によって道徳法則が導けるのか
多くのカント研究者が、道徳法則というのは純粋な形式に過ぎないのであり、そのためアプリオリな思考実験によって、「正解」「不正解」を導けると説くのです。そして、具体的に自殺や虚言は道徳的悪であると主張するのです。一般の人は「はい?」「何言っているの?」となると思います。私もそう思います。
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カントの誤謬論
前回の記事では、カントの思想の根幹に、理性には限界があり、どうしても誤りを犯してしまうものであるという前提があるという話をしました。彼は他方で、誤謬、それもひどい誤謬のうちにも、必ず真なる部分があるはずであるとも言うのです。興味深くないですか?
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批判哲学の射程
カントの思想が批判哲学であることは周知の事実です。その意味については認識論の領域で語られることが多いのですが、それは倫理学においても非常に重要な意味を持つと私は捉えています。今回はその点について考えてみようと思います。
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まずは自分に何ができるか考えるべきでは
スーパーで見知らぬおじさんが私に話しかけてきて、レジの列の前に入るように言いました。彼はなぜそんなことを言ったのでしょうか。そこには彼なりの考えがあったのです。
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妥当性がないことが分かっていながら発言していて虚しくないのか
自分が贔屓のチームを応援するために、一貫性のない発言をする人というのは、自分の言明が偏っていることを自覚しているのでしょうか。スポーツと日常生活では別とでも言うのでしょうか。私は信じられません。