カント倫理学

今まで哲学や倫理学に関心がなかったような人にもカント倫理学の魅力や価値が伝わるように記事にまとめていくつもりなので、お付き合いください。

カント倫理学

「勇気を持て」という言明に意味はあるのでしょうか?

アリストテレスは「勇気」を徳目のひとつと見なします。しかし、人は何を持って、そこに「勇気」を見出すのでしょうか。というのも挑戦することが「勇気」と言われる場合もあれば、反対に、引き下がることを「勇気」と表現することもあるためです。つまり、いかようにも解釈できてしまうためです。はたして「勇気を持て」と言うことにどれだけの意味があるのでしょうか。
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はたして結果至上主義と教育は両立するのでしょうか

1992年、星稜高校の松井秀喜選手が五打席連続で敬遠されるという出来事がありました。そして、そのことが社会的な議論を巻き起こしました。はたしてこのような結果至上主義の作戦と教育は両立するのでしょうか。敬遠の指示を出した馬淵監督の言明を頼りに考えてみたいと思います。
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思考過程の正しさについて

思考過程の正しさは、そこからもたらされた結果によって判定されるべきではなく、思考内容自体によって良し悪しが判断されるべきなのです。しかし、現実にはそうなっていません。オリンピックスポーツ、とりわけ野球を例にして、その問題点を明らかにしたいと思います。
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カントにおける卓越性と道徳的徳の関係性について

世の中には「よい」と言われるものがさまざまあります。イマヌエル・カントは具体的にどのようなよいものがあるのかについて列挙して、説明しています。前回の記事で取り上げたアリストテレスと絡めて「よい」とは何なのかについて考えてみたいと思います。
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アリストテレスにおける卓越性と道徳的徳の関係性について

私は、アリストテレスについて、卓越性を道徳的善と見なす論者として解しています。だとすると大谷翔平選手のような卓越性を備えた人物は道徳的善をも備えていることになります。他方で、そのようなアリストテレス解釈は成り立たないという批判の声もあります。その批判の是非について検討してみたいと思います。
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決めつけは思考の怠慢なり

カントは他人の道徳性は知りえないと言います。この点はカント倫理学の欠点なのでしょうか。私はむしろ他人の道徳性まで決めつけようとするその怠惰な態度の方が批判に値すると思っています。
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続・殺人すら責任が問えないケースについて

利己的なことを考える間もなく体が勝手に動いた場合と、何をすべきか考え、かつ、意図的に利己的な打算なしに行為した場合のどちらの方が道徳的でしょうか。カントとシラーの立場を比較しながら考えてみたいと思います。
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殺人すら責任が問えないケースについて

カントは、意志の介在しない行為に、道徳的善も悪もないと説きます。どんな凶悪犯罪を犯してもそうなのでしょうか。反対に、何人助けてもそうなのでしょうか。改めて考えてみたいと思います。
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カント自身は自身の考えについてどれだけ理解していたのか

「分かる」と「分からない」の間に線引きなどできるのでしょうか。他人の考えのみならず、自分の考えですら、「分かる」と「分からない」の間には線引きなどできないのではないでしょうか。だとすれば、カント自身も、自らの哲学であり、倫理学に関して、実はよく分かっていないということがありうるのではないでしょうか。
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良心の役割

カントは良心の働きについて、内的な法廷における原告の役割を担うものとして説明します。しかし、同時に、裁判官の役割も担うと言うのです。原告と裁判官が同一人物というのは問題ないのでしょうか。またカントは、理性が原告と裁判官、感性が被告の役割を担うと言います。しかし、理性と感性の間に本当に線引きなどできるのでしょうか。これらの疑問に対峙しながら(カントの考える)良心の役割について明らかにしていきたいと思います。
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