アリストテレスにおける卓越性と道徳的徳の関係性について

ootani shoheiカント倫理学

ツイッター上での出来事だったので、知っている人もいるかと思います。先日、徳倫理学の専門家である立花幸司氏とアリストテレス解釈についてやり取りしました。個人的にはいろいろと得るものがあり、そのため多くの人の目に触れる形でまとめる意義があると考え、ここに記事としてまとめることにしました。

また私自身が(客観的な立場の)読者のみなさんのがどのように感じたのかについても関心があるので、ご意見があれば、ぜひお聞かせてください。

やり取りの中身

まず私自身は、アリストテレスについて、卓越性を道徳的徳と見なす論者として理解しています。もう少し簡単に言うと、卓越している(優れている)ということは、直ちに道徳的に卓越している(優れている)を意味するということです。

では、卓越性であり、道徳的徳を備える者とは具体的にいかなる者のことなのでしょうか。以下の私のツイートはそのことを念頭に置いています(功利主義に関しても言及していますが、ここでは関係ないので、無視してください)。

すると、徳倫理学研究として高名な立花幸司氏が、私はそれまでまったく面識がなかったのですが、以下のような反応をくださいました。

大谷選手の卓越性のうちに直ちに道徳的徳性を認める徳倫理学者は少ない・・・ということで、暗に一部に存在するであろうことを認めていますが、とにかく立花氏自身はその立場に与しないということです。

では立花氏は、卓越性を備える大谷選手が道徳的徳を有するわけではないというアリストテレス解釈がいかに可能であると考えているのでしょうか。その点が知りたく以下のようなツイートをしました。

それに対する立花氏の反応は以下のようなものでした。

正直これを見ただけでは、立花氏が何を拠り所に私の解釈(卓越性=道徳的徳、例、大谷選手)が成り立たないと主張しているのかよく分かりませんでした(後から読むと、多少違って見えます)。そこでいろいろ考えてみました。

先ほど私は「卓越性=道徳的徳」と理解していると表現しました。そこで私は「スキルに関わる卓越性=道徳的徳」という構図を前提にしていたのですが、ここに疑念の余地はないのか考えてみました。

しかし、アリストテレス自身の言葉を見る限り、スキルと卓越性はやはり切り離せないと思います。

キタラ奏者とすぐれたキタラ奏者が類において同一であり、これは、あらゆることについても限定ぬきにそうであるが、そのように「この人間」と「このすぐれた人間」とでは、はたらきが類において同一であるとわれわれは言っておこう(なぜなら、はたらきに、卓越性の点での加算分が付加されているのである。(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)

スキルに秀でたキタラ奏者とそうでない奏者の間には、卓越性の点で差異があることが語られています。すると、巧なキタラ奏者にはスキルに関わる卓越性が備わっており、スキルに関わる卓越性が道徳的徳であるならば三段論法によって、キタラ奏者には道徳的徳が備わっていることになるはずです。

私は「卓越性」と「道徳的徳」という表現を用いていますが(翻訳でも別々の訳が使われています)、古代ギリシャ語ではどちらもアレテー(ἀρετή)であり、「卓越性」が「道徳的徳」ではないという論は成り立ちようがないのです。

以下のツイートはそのつもりで書きました。

この時点で、もうこれ以上掘り下げることもないかと思い、感謝の意を述べて、やり取りを終えるつもりでした。

ところが、立花氏から以下のようなツイートが返ってきました。

立花氏は「道徳(moral)という概念に距離をとる」という(わざとなのか何なのか)分かりにくい表現を使っていますが、私の方ではこれを「道徳的な意味ではない」と受け止めました(この後の返信において、私が誤解を犯していることを指摘するわけでもなく、やり取りに齟齬が生じているようにも見えないので、間違っていないと思います)。

私と立花氏の見解の違いを図にすると以下のようになります。

図一

しかし、まず私には、アリストテレスのテキストをそうは読めません。そして、本当にアリストテレス自身がどこかで道徳的徳(卓越性)と、道徳的意味合いを持たない徳(卓越性)があることについて言及しているのでしょうか。以上のひとつの思いとひとつの疑問を込めて、以下の二つのツイートをしました。

その後、以下のようなツイートが返ってきました。

見ての通り、私の質問(アリストテレスはどこかで区別しているのか?しているのであればどこで?)には立花氏は答えていません。答えないということは、答えられないと受け止められても仕方ないと思います。

図二

翻訳上の問題

ここからはやり取りしたこと以外に私が感じたこと、考えたことについて話をしたいと思います。まずは(アリストテレス云々は横においておいて)翻訳のあり方についてです。

そもそも「道徳的」という表現が存在していなかった?

私のうちには(少なくともアリストテレス自身の)古代ギリシャ語において、今日的な意味で「道徳的」もしくは「倫理的」と表現することなど、そもそもできなかったのではないかという思いがあるのです。

どういうことかというと、英語で「道徳的」「倫理的」を意味するethicalの語源となる古代ギリシャ語の ἠθικός(エティコス)には、今日的な「道徳的」「倫理的」という意味はないのです。立花氏は光文社による『ニコマコス倫理学』の翻訳に携わっていますが そこで彼自身もこの古代ギリシャ語を(「道徳的」や「倫理的」ではなく)「人柄の」と訳しています。ちなみに私は自著では(習慣によって獲得されるものであるため)「習慣的」という訳を当てました。

ἠθικόςという単語に今日の「道徳的」「倫理的」という意味はなくても、それに代わる別の用語がある可能性も考えられますが、結論から言うと、そんなものはないのです。

なぜそう言い切れるのかというと、先ほど言及した立花氏自身のアリストテレスの翻訳部分には、「道徳的」「倫理的」といった表現は一か所も出てこないのです(出てくるのは「訳注」「訳者がつけた章の見出し」「訳者による解説」のみなのです)。

もしアリストテレス本人が、今日的な意味で「道徳的(倫理的)」(もしくは「道徳的(倫理的)意味合いではない」)といったことを意図していたというのであれば、それを訳に反映させるべきでしょう。自分の訳文にまったく使用していない概念を指して、アリストテレスはその概念と別の概念を区別して用いていたと主張する(しかし、どこで区別しているのかの問いについては答えない)というのは、立場的にはかなり苦しいと思います。

日本語上の不自然さ

日本語において「あの人は徳がある」と言った場合、多くの人は「あの人は道徳性がある」と(ほぼ)同義に受け取ると思います。他方で、これを「スキルの優れた人のことであり、道徳性(人間性)は別」などと受け止める人が実際にどれだけいるのでしょうか。もしこの定義を通すなら、ものすごい技術に長けた盗人に対して、「彼はスキルに関わる卓越性と徳を備えた人物である」と表現できることになります。そして「ただ、そこに道徳性(人間性)は含意されていないけどね」と付け加えることができることになります。これに対して「ずいぶんと不自然な言い方をするな」と思うのは私だけではないはずです。

誤解してほしくないのですが、私は「徳」に道徳的意味しかないとまでは言っていません。なかには道徳的意味をまったく持たないような使用例もあるでしょう。しかし、基本的に、そして、たいていの場合は道徳的な意味合いで使われているはずであり、そのためとりわけ厳密性が求められる学問レベルの話をしているのであれば、上のような誤解を招きかねない表現は避けるべきだと思うのです。もしアリストテレス自身が「徳」に道徳的な意味を持たせている場合と、そうでない場合があるというのであれば、そのことをどこかで断るべきなのではないかという話です。

とはいえ、ここにジレンマがあるのだと思います。もしそれを断ってしまうと「本当にアリストテレスは自覚的に道徳的意味の場合とそうでない場合を区別しているのか?」「どこで区別しているのだ?」「本当は区別などしていないのでは?」といった問いに向き合わなければならなくなるためです。

この点についての私の質問には立花氏は答えなかったことについてはすでに触れました。そして、その代わりに、アリストテレスは「徳」(卓越性)という語にも道徳的な意味とそうでない意味があることに気が付いていたはずであり、オリンピックで活躍する選手は後者に属するのであって、そうでなければアナロジーにならない、と言うのです。

参考までに、もう一度ツイートの内容をここに貼り付けておきます。

どうやら「アナロジー」という語が鍵になりそうです。

アナロジーとは

さて「アナロジー」とはどのような意味を持つ言葉なのでしょうか。この語は辞書的には、概念Aが概念Bを含む場合とそうでない場合の二通りがあるとされています。例えば、「人間」「馬」「犬」には「動物」という共通点を見出すことができます。そしてこの場合、前者は後者に含まれることになります。これとは別に、犬の形をした星座と実物の犬といったように二つの異なるものの共通点を指す場合に用いられることもあります。この場合、一方が他方に含まれるわけではありません。ここでは正確性を期すために、前者を「含むアナロジー」、後者を「含まないアナロジー」と表現していきます。

アナロジーとは - コトバンク
精選版 日本国語大辞典 - アナロジーの用語解説 - 〘名〙 (analogy)① ある事柄をもとに他の事柄をおしはかって考えること。特に、論理学で、物事の間の特定の点での類似性から、他の点での類似性を推論すること。類推。類比。※思ひ出す事など(1910‐11)〈夏目漱石〉三「具体的の事実を土台と...

ちなみに、アリストテレス自身は以下の引用文のみならず、この前後にも「アナロジー」などという表現は使っていません。そのため「含む」なのか「含まない」なのかも断っていません。それでも立花氏が「アナロギーとして効いている」と言うので、実際にアリストテレスのテキストを参考にしながら、どこに、どのようなアナロギーが認められるのか考えてみたいと思います。

最高善は[ 徳 の] 所有にあるとするのか、[ 徳 の] 使用にあるとするのか、すなわち、[ 徳 がそなわった] 性向にあるとするのか、[ 徳 に基づいた] 活動にあるとするのかという違いは、おそらく些細な問題ではない。というのも、[ 徳 がそなわった] 性向には、性向として 徳 がそなわりながらも、たとえば眠っている人の場合や、それ以外にもなんらかの事情で動きがとれなくなっている人の場合のように、いかなる善いことも為し遂げないことがありうるが、[ 徳 に基づいた] 活動には、そんなことはありえないからである。というのも、[ 徳 に基づいて] 活動する人は、 かならず為す のであり、しかもかならず立派に為すからである。つまり、ちょうどオリュンピア競技において栄冠を手にするのが、最高の美しさと最高の力強さをそなえた人々ではなく、実際に競技する人々であるように(というのもかれらのうちのだれかが勝利するのだから)、そのようにして、人生における美しく善き事柄についても、実際に行為する人々こそがそれらを勝ち取る人々であるとすることが、正しいのである。(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)

立花氏は直近のツイートで「徳は活動かどうかという点でアナロジーが語られている」と述べていますが、アリストテレスの立場では、徳が活動であることは疑いの余地はなく、アナロジーの内容は、徳が活動であるのと同じように、オリンピックで栄冠を手にする者は活動をする者であるということだと思われます。

また立花氏が、キタラ奏者の文脈と絡めて「「道徳」(moral)という概念に距離をとる」と表現したことを受けて、私はアリストテレスの用いる「徳」(卓越性)という用語に関して、これが道徳的な意味を持たないとはどうしても読めないと告げたところ、立花氏はそれを否定し、自説を繰り返す形で、オリンピックで栄冠を手にする選手に絡めて「「道徳」的に優れているという主張までは含意していない」と説いていました。立花氏の立場が、キタラ奏者の文脈においても、オリンピック選手の文脈においても、「徳」(卓越性)という語に道徳的な意味合いはないというものであり、この点に異論の余地はないと思います。以上のことを踏まえると以下のような構図になるかと思います。

図三

道徳的な意味ではない徳とは活動に他ならないのであって、それはまさにオリンピックで栄冠を手にすることも活動に他ならないことと同様である」という言明はアナロジーであり、内容的にも妥当であるように見えます。

ここまでの私の理解であり、説明に異存ないでしょうか?

ここまでの説明は一見したところ整合的に見えるかもしれません。しかし、立花氏はそのすぐ後に「含まないからこそ、アナロジーとして効いている」と述べています。つまり、彼はここに「含まないアナロジー」が使用されていると説明しているのです。図にすると以下のようになります。

図四

しかし、これでは立花氏にとってはまずいことになります。オリンピックで栄冠を手にする者は、徳(卓越性)に基づいた活動ができる者として挙げられているものの、立花氏の力点は、しかしながら、そこでの「徳」(卓越性)には道徳的意味合いはないというところにあったはずです。加えて、もしここでオリンピックで栄冠を手にする者が道徳的意味合いではない徳(卓越性)に基づいた活動に含まれない・・・・・のだとすると、その者はいったいどのような徳(卓越性)に基づいているのでしょうか。二重否定除去によって道徳的徳(卓越性)と考えざるをえないのではないでしょうか。つまり、以下のような構図です。

図五

これならば道徳的意味ではない徳(卓越性)とオリンピックで栄冠を手にする選手の間に「含まないアナロジー」が成り立ちます。しかしながら、見ての通り、これではオリンピックで栄冠を手にする選手が道徳的徳(卓越性)に含まれることになってしまいます。これでは立花氏にとっては不本意でしょう。

もしくは、道徳的徳(卓越性)とオリンピックで栄冠を手にする選手の間に「含まないアナロジー」を見出す可能性です。図にすると以下のようになります。

図六

ここでは確かに、道徳的徳(卓越性)とオリンピックで栄冠を手にする者の間に「含まないアナロジー」が効いていることになります。そして、すべてのオリンピックで栄冠を手にする者が直ちに道徳的徳(卓越性)に基づいて活動しているわけではないという立花氏の主張にも合致します。

しかし今度は、立花氏がこれまで繰り返し主張してきた、「徳」(卓越性)という語に道徳的意味合いはないという言明との整合性が取れなくなってしまいます。私は立花氏が「徳」には道徳的意味合いはないと繰り返し述べてきたから、これまで(図五まで)アナロジーに絡めてこなかったわけで、辻褄が合わなくなったからやっぱり登場させますとはいかないでしょう。

それ以外にもさまざまな解釈の可能性について考えてみたのですが、結果的にはどうにもなりませんでした。立花氏の主張の柱は(少なくとも当該箇所には)「徳」に道徳的意味合いはないという言明と、「含まないアナロジー」という二つにあると思うのですが、どう理屈をこねくり回しても、この二つを両立させることは私にはできませんでした。

アリストテレスの問題

ここからはアリストテレス自身の問題点についての話をしたいと思います。

私はアリストテレスの主張の歪(ゆがみ)は、「徳」と「卓越性」を同一視してしまった(そのためそれ以降、受け手はアレテー(ἀρετή)というギリシャ語を「徳」と「卓越性」に文脈に応じて区別せざるをえなくなってしまった)ところにあると捉えています

もう少し説明しますと、「徳」の方は道徳的な意味合いが濃いと言えますが(私は「道徳的な意味合いしかない」とは言っていません)、他方「卓越性」は道徳的な意味合いは薄いと言えます(私は「ない」とは言っていません)。ここに歪みが生じてしまうのです。

上述の歪が顕著な形で現れるのが、まさに大谷選手の例であり「大谷選手は卓越性を備えている」と言う分には何の違和感もないものの、「徳を備えている」と表現してしまうと、」という語によって道的な意味合いを帯びてしまうため違和感が生じてしまうのです。

ここで「いや、大谷選手は人間的(道徳的)にもすぐれているよ」と言う人がいるかもしれませんが、それは彼がものすごい活躍(卓越性を発揮)しているから・・人間的にもすばらしいわけではないはずです。そのことは例えば、バリー・ボンズやダリル・ストロベリーなどの野球選手としてのすばらしい活躍と、彼らが犯した犯罪やトラブルを並べてみると分かりやすいかと思います。

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はたして本当に万学の祖は、卓越性と道徳的徳を同一視するというおかしな主張を展開している、控えめに言っても、両者を区別していることが察せられないような書き方をしているのでしょうか、そして、それを擁護しようとする試みも不首尾に終わっているのでしょうか。私は自分が根本的な部分でとんでもない勘違いをしているのではないかという疑念に苛まれながら、ここまで記事を書いてきました。もし私の記述におかしな点があることに気が付いた方がいましたらサイトにある「ご意見・ご質問」から投稿することができるので、ぜひ指摘してください

次回予告

ちなみにカントは(アリストテレスとは異なり誤解の余地がない形で)道徳的徳と、道徳に関わらない卓越性について明確に区別し、論じています。何もなければ、次回の記事において取り上げるつもりでいます。

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