決めつけは思考の怠慢なり

決めつけないカント倫理学

前回と前々回の記事において、ドイツで先日ソマリアからの難民が無差別殺人を犯した事件に絡めて、理性が働いていおらず、本能や条件反射や不思慮に発する行為の道徳的価値の有無について話をしました。

他人の内面は知りえない

そこでは、無差別殺人を犯したソマリアからの難民を駆り立てたものが何であるかまだ分かっていないという話をしました。ただ実際のところ、そんなものどこまでいっても分からないのです。裁判で裁判官が何らかの判断を下したとしても、それが真理であるわけではありません。他人の内面など十全には分からないのです。

他人の道徳性は知りえない

このことはカント倫理学とも関わってきます。カントは道徳的善性は行為者の意志のあり方によって決まると言います。しかし、他人の意志のあり方などどこまでいっても正確には把握することなどできないのです。

ここから必然的に、他人の道徳性は判定できないことになります。そして、この点を批判する人たちがいます。「カント倫理学を用いても、他人の道徳性を判定できないじゃないか」と吐き捨てるのです。

しかし、これはおかしな批判です。

人間の怠慢

前回の記事において「傾向性」の話もしました。人間は誰もがこの傾向性を持っており、ついついそちらの方に傾いていってしまうのです。「そちら」というのは、自分にとって都合の良い方、楽な方のことです。本来は考えるべきなのに考えることを怠り、分からないことまで分かった振りをしたり、決めつけたりしてしまうのです。

例えば、出身大学というのはその人のひとつの要素でしかありません。それだけの情報から頭の良さ・悪さなど分かるはずがないのです。しかし、現実には「〇〇大学出身だから頭が良い」だの、反対に「〇〇大学出身だから頭が悪いだの」と発言する人が(結構)います。このように、ほんのわずかな情報から、本来分かるはずのないことまで決めつけてしまうような姿勢は思考の怠慢と言えます。

私の怠慢

かく言う私も恥ずかしながら同じような誤謬を犯していたことがありました。以前は太った人を見て、「不摂生な人間だ」とか、「もっと痩せればいいのに」などと思っていたのです。しかし、あることをきっかけに、そのような考えが誤りであることに気がついたのです。

私はあるとき、とても太った人と仲良くなりました。その彼はスポーツをよくしますし、食事にもかなり気を使い、すごく節制していたのです。彼曰く、家族もみな同じで、いくら頑張っても痩せにくい体質なのだそうです。つまり遺伝的要素が強く影響していたのです。これでは彼が後天的にできることは限られていることになります。

まとめ

人がどのようなプロセスをたどって現状に至ったのかということは、本人に寄り添ったり、話を聞いたりしなければ分かるはもありません。もっとも、寄り添い、話を聞いたりしたところで相手の内面が十全に分かるわけでもありません。寄り添っても見えない部分はあるはずですし、相手が真実を言わない可能性や、こちらが誤解する可能性もあるためです。どこまでいっても、他者の内面は完全には知りえないのです。

だから知ろうとしなく良い、ということではありません。完全には知りえないことを承知しつつも、知ろうと努めることが大切だと思うのです。その過程で、さまざまな可能性があることに思いを馳せ、極力思い込みや決めつけを極力排除していくべきなのです。それが私がカントから学んだ教訓です。

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