最初にこれまでの話の復習を兼ねて、道徳的善をなすための手順について時系列でまとめておきたいと思います。以下のようになります。
(用語の意味について多少判然としない面があっても)大多数の人が、大枠において、受け入れられる内容なのではないでしょうか。
もし理解できない、または理解できても納得できない人がいましたら、その点について遠慮なく質問してください。
では私たちは、どのようにして道徳法則を導くことができるのでしょうか。それは、自身の行為原理が、普遍的な視点からも望ましいものとして受け入れられるかどうか吟味してみることによって見えてくるのです。
このような思考実験によって、躊躇なく道徳法則を導くことができる場合もありますが、そうでない場合もあります。例えば、前回の記事において紹介したような、出生前診断で産まれてくる子供が高い確率でダウン症であることが分かっ(てしまっ)たような場合です。産むか、諦めるか、難しい判断となります。
しかし、カントに言わせれば、そこに(正しい方を選ばなければ道徳的価値が認められないという意味での)「正解」などないのです。本人が道徳法則と判断したものが道徳法則なのです。同じことですが、道徳判断の導出を誤り、それが理由となって道徳的価値が認められないという可能性は、完全に排除されているのです。
ここまでの話は、前回までの話の復習になります。それは基本的に、自身の道徳判断と他人の道徳判断の間の齟齬にまつわる話でした。今回は、過去の私の道徳判断と現在の私の道徳判断の間の齟齬についての話をしたいと思います。ただ理屈は同じです。
仮に産まれてきた子供が実際にダウン症であり、育児に想像以上の困難が伴うとします。そして、その結果、子供を産んだことを後悔することになるとします。しかし、それでも子供を産むときに下した道徳判断の正しさが揺らぐことにはならないのです。当然、道徳的価値が変化することもありません。カント倫理学は結果論を排除するのです。
ひとつ分かりやすい例を紹介したいと思います。原作の本(『アフガン、たった一人の生還』)をもとに映画(『ローン・サバイバー』)が作成され、またマイケル・サンデルの著作(『これからの「正義」の話をしよう』)でも取り上げている話なので、知っている人も多いかと思います。
マーカス・ラトレルはアメリカ特殊部隊の一員として、アフガン戦争に参加していました。あるとき彼ら四人は、二人のヤギ使いに遭遇しました。彼らヤギ使いは民間人であるものの、タリバンを呼んでくる可能性がありました。本来であれば持っているロープで拘束するところなのですが、そのときラトレルたちは誰もロープを持ち合わせていませんでした。
ここで選択肢は二つになります。ヤギ使いたちを手にかけるか、何もしないで解放するかです。
4人での投票で決めることとなり、ラトレルは良心からヤギ使いを解放することに一票入れました。
投票の結果、ヤギ使いを解放することに決まりました。そして、実際に彼らはヤギ使いたちを開放したのでした。
しかしその後、ヤギ使いたちはタリバンを呼び、ラトレルたちは彼らに包囲されてしまったのです。戦闘の末、アメリカ兵のなかで生き残ったのは、後から参戦した部隊の隊員を含めて、ラトレルたったひとりだったのです。19人のアメリカ兵が犠牲になりました。
このような結果を受けて、ラトレルは自分の道徳判断の誤りを認め、自戒することになったのです。
ここで読者のみなさんに質問です。
では先の問いに対して、カントであれば、どのように答えるのでしょうか。
これまでの話の流れから察しはつくと思います。ラトレルが民間人を殺さずに見逃したことは、その時点で当人がそれを道徳的に正しいことであると信じていたのであれば、その正しさが後から修正されたり、取り消されたりすることはないのです。
ラトレルは、もたらされた甚大な被害(結果)から、自分の判断が誤りであったという結論を導いてしまっています。これは結果論に他なりません。たとえ結果が、どんなに悲惨なものであったとしても、彼は自身で述べているように「民間人に手を加えるべきではない」という良心の声に従ったのです。その正しさが、結果によって、取り消されるということはありえないのです。
カントに言わせれば、行為の結果というものは、行為の倫理性に何らの影響も与えないのです。
善い意志は宝石のように、まことに自分だけで、その十分な価値を自身のうちに持ち、光り輝くのである。役に立つとか、あるいは成果がないといったことは、この価値に何も増さず、何も減ずることはないのである。(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』)
ダウン症の子供の子育てがいかにつらく大変であろうと、戦友を失くしたことによって背負うことになった十字架がいかに重かろうとも、もし自分が道徳的に正しいと判断した上で行為したのであれば、自分を責めないで欲しいのです。
それどころか、もしその道徳法則をそれが道徳法則であるがゆえに(つまり、純粋な善意志から)行為したのであれば、道徳的善をなしたことを誇りに思って欲しいのです。
少なくとも私は結果が伴わなくとも胸を張って生きていけるような人間になりたいと思っています。
結果に惑わされないようになりたいものです。