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道徳法則に従っているつもりが、実際にはそうでなかった可能性について | カントに学ぶ意志の倫理学

道徳法則に従っているつもり・・・に過ぎない可能性について

ルールに従うとはいかなることなのかカント倫理学

小学生の頃、先生が「みんなやればできるはず」と言っていたのを覚えています。私自身も、(現状ではどんなにできない子供でも)本来は、みんなできるはずであり、少なくとも教育者は、そう信じて教育に取り組むべきだと思っています。

このような発想の根底には、前々回と前回の記事において取り上げた、啓蒙思想の発想が横たわっています。この「誰もができる」「万人に開かれている」という啓蒙の理念が、倫理の文脈において、「誰もが道徳法則を導き」「誰もが倫理的善をなすことができる」という命題に昇華するのです。同じことを別様に表現すれば、一部の人のみが有するような才能や知識、また運といったものは必要ないのです。

カントはそう信じていたようなのですが、どうなのでしょう。ここで一歩引いてみて、本当にそう言い切れるのか、その理論的妥当性について吟味してみたいと思います。

まず、その反例の候補として考えられるのは、道徳法則の導出にまつわる誤謬です。

 

この問題についてはすでに別の記事において論じました。関心がある人はそちらを参照してください。

良心が誤りを犯すことはありうるか
自身の道徳判断を後から後悔したような場合の道徳性はどうなるのでしょうか。損なわれることになるのでしょうか。

そこでは、自らが道徳法則であると判断したものが道徳法則なのであり、その判断が誤りであり、その誤謬のために道徳的価値が認められない可能性は排除されていました。カントに言わせれば、良心が誤謬を犯し、そのために道徳的価値が認められないということは起こりえないのです。

 

今回は道徳法則にまつわる、もうひとつの誤謬の可能性について吟味してみたいと思います。それは道徳法則の遵守にまつわる誤謬です。つまるところそれは、本人は道徳法則に従っているつもりであったものの、その実、そうではなかった可能性です。

 

この問いに関連して、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが興味深いことを指摘しています。

「規則に従う」ということは一つの実践である。そして、規則に従っていると信じていることは、規則に従っていることではない。だから、人は規則に「私的に」従うことができない。さもなければ、規則に従っていると信じていることが、規則に従っていることと同じととになってしまうだろうからである。(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』)

規則に従っていると信じていることと、実際に規則に従っていることは確かに同じではありません。この点に異論の余地はないように思えます。

ウィトゲンシュタイン自身は、チェスを例に挙げて説明しています。特にルールを覚えたてであったり、覚えている最中の人は、ルール(規則)を知らず知らずのうちに破ってしまうことがあります。そのときその人は、ルールに従っているつもりでも、実際には従っていないのです。

ウィトゲンシュタインはカントを念頭に置いているわけではありませんが、カント倫理学に絡めて言うと、道徳法則(規則)に従っていると信じていることは、実際に従っていることを意味しないのであり、道徳法則に従っているつもりが、実際にはそうでなかったということは起こりうるのではないでしょうか。

このような疑問を前に、私は以下の二つのことを指摘したいと思います。

(一)

まず、そのような誤謬(つまり道徳法則に従っているつもりであったが、実際にはそうではなかったという誤謬)がどれだけ現実に起こりうるのであろうかということです。ウィトゲンシュタインはチェスを例にとって説明していますが、チェスというゲームは客観的なルールが私の外に存在しています。他方の道徳法則は、私のなかにあるものであり、それは私自身が導くものなのです。この点で決定的な相違があると言えます。

そもそも、自分が導いた道徳法則に従っているつもりであったものの、実際にはそうでなかったというのは、具体的にはどのようなケースなのでしょうか。私はひとつとして現実的な例を挙げることができないのです。何か思い浮かぶ人がいたら、教えてください。

(二)

それでも仮に、道徳法則に従っているつもりであったが、実際にはそうではなかったということがありうるとしましょう。だとしても、道徳法則の導出にまつわる誤謬の議論から、結論は予想できるのではないかと思います。そこでは道徳法則の導出が客観的に妥当であるかどうかは、そもそも俎上に載らないのであり、主観的な「自覚」(bewusst)や「確信」(gewiss)の有無が試金石になることが説かれていました。

そのことが象徴的に表れている一文をここに引いておきます。

すなわちある行為を企てるのに、それがおそらく正しいであるという単なる私見さえそこに伴っていれば、それで十分なのである。(カント『単なる理性の限界内の宗教』)

そうだとすれば、道徳法則の遵守にまつわる誤謬に関しても、同様の理由で退けられるのではないでしょうか。つまり、主観的に道徳法則(規則)に従っていると信じていることが正しさの十分条件となるのではないでしょうか。

 

そう考えると、先の引用文は以下のように言い換えることができるかもしれません。

すなわち道徳法則に従うのに、おそらく自分はその道徳法則に従っているだろうという単なる私見さえあれば、それで十分なのである。

前々回と前回において、道徳法則の導出にまつわる誤謬の可能性、そして今回、道徳法則の遵守にまつわる誤謬の可能性を退けました。しかし、それで当為(「すべき」)が可能(「できる」)を含意することを示す十分な材料が提示できたわけではありません。私たちにはもうひとつ退けなければならない誤謬可能性があります。その問題については次回の記事に持ち越すことにします。

 

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