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悪とは何か? | カントに学ぶ意志の倫理学

悪とは何か?

倫理的悪とはカント倫理学

前回の記事では「よいとは何か?」という問いに対峙して、倫理的善とそれ以外の良さを区別すべきこと、そして、倫理的善は非利己的な動機であるところの善意志であるということについて論じました。

今回は倫理的善の対極にあるもの、つまり、倫理的悪の姿について考えてみたいと思います。

実は今学期の私が担当したゼミのテーマが、「カントにおける悪」でした。そのテーマを選んだきっかけは当時3歳だった息子の「パパ、悪って何?」という一言でした。

息子
息子

パパ、悪って何?

私

えーと あのー そのー

(タジタジ)

「悪」なんて言葉をどこで聞いたのか息子に尋ねると、幼稚園で他の子供に「君が悪い!」と言われたというのです。それ以来、息子は何かあるごとに「ぼく悪い?」「パパ悪い?」「ジミー悪い?」(注、ジミーとは息子お気に入りのうさぎのぬいぐるみの名前)などと聞いてくる状態がしばらく続きました。

このような息子の疑問に答えるべく、大学のゼミで一学期間かけて学生たちと悪について侃々諤々の議論をしたのでした。

学期が終わった今でも正直分からないことだらけなのですが、少なくとも私がある程度納得できている部分についてだけでも、ここにまとめてみたいと思います。

まず押えるべきは「よい」同様に、「悪」にも様々な内包があるということです。例えば、倫理的悪、結果の悪、卓越性の欠如という点での悪といったものです。それらを混同しないよう注意する必要があります。

結果の悪とは、例えば、売り上げが落ちるとか、試験で低い点数をとるといったこと、卓越性の欠如というのは、うまく商品が売れないとか、数学が苦手であるといったことです。私が特段説明しなくとも、大まかなイメージはできると思います。

他方で、倫理的悪とは具体的にいかなることなのでしょうか。みなさんは泥棒や人殺しや嘘のような行為をイメージするかもしれません。

しかしカントの説く、倫理的善の姿について思い返してみると、それは行為そのもののうちにはなく、その源泉となる動機、より具体的には意志のうちに認められるものでした。そのことを踏まえると、倫理的悪も動機や意志のうちに存するのではないかと推測できます。

また、倫理的善が純粋で利己的な善意志であることを考えると、その対極にある倫理的悪とは利己的な意志のことを指すのではないかという仮説を立てることができます。

ただ、この仮説には大きな困難が立ちはだかります。

自らの行為について冷静に見つめ直してみると、そのほとんどは自分の都合によってなされているのではないでしょうか。例えば、「コーヒーを飲みたいからコーヒーを飲む」とか、「サッカーをしたいからサッカーをする」といった行為です。そういった行為に対して「それらは利己的な都合によってなされているから倫理的には悪だよ」と言われても、困ってしまいます。「それではどうすればいいんだ!」「やりたいことを一切してはいけないのか!」とツッコミたくなるのが普通の心情だと思います。つまり、もし利己的な行為が直ちに倫理的悪であるとすると、我々の行為のほとんどは倫理的悪であることになってしまうのです。あまりに厳格、禁欲的なのではないでしょうか。

実際に、すでにカントの生前に、カントの言葉をそのように受け止め、その厳格性、禁欲性について批判した人物がいました。それが文学者・詩人として有名なフリードリヒ・フォン・シラーです。

シラー
シラー

カントは道徳の厳格主義者!

カント倫理学はあまりに禁欲的!

はたしてカント倫理学は、自分が好きで行為すること、つまり、利己的な行為の一切を倫理的悪と見なす、あまりに厳格で禁欲的な倫理学説なのでしょうか。

この問いについては、次回の記事において引き続き論じていきたいと思います(先ほども触れたように、カントの悪についての論考は、非常に多くの問題を孕んでいるため、そう簡単にまとめることができないのです・・・)。

 

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