前々回、ならびに、前回の記事において、自分で規範を導いたのではなく、他人によって強制された規範に従ってしまうこと、つまり、他律の弊害について述べました。
ただここで以下のような疑問が出るかもしれません。
確かに、その場に限っては、他者の働きかけが、よい方向に働くかもしれません。しかしそれは、相手の命じたことがたまたま望ましいものであればよいが、そうでない場合は、望ましくない結果を招くということに他なりません。かつてのオウム真理教の信者のように、「殺せ」と言われて、「はい殺しました」ではまずいのです。
自分がどのように振舞うかということを他者の判断に委ねてはいけないのです。
ただここで、今度は以下のような疑問を口にする者がいるかもしれません。
しかし、私はここで問題にしているのは、現にできるかどうか、ではなく、それができるようになるよう環境を整えるかどうかということなのです。大人がそういった環境を整えてやらなければ、子供はいつまでも自分の頭で考える力を伸ばすことはできないでしょう。
仮に子供のときに、親の言うことを聞く「いい子ちゃん」だったとしても、中身は空っぽということが十分ありうるのです。大人強制した規範などそのうちに効果は切れてしまいます。それが切れたときに、中身のない大人がひとりたたずむということにもなりかねないのです。
他方で、自分で考え、判断を下し、それに則って振舞うことを、前回も触れたように、カントは「自律」と呼びます。自分で自分自身を縛ることによって、時間や空間的な制約を受けることなく、永続的に規範は効果を発揮するのです。
また自律について重要なことは、たとえ自らが導いた規範であっても、それが利己的な都合によって導かれた物であった場合には、自律とは見なされないということです。知能犯のようなものをイメージすれば分かりやすいと思います。犯罪のために、しっかり考え、工夫して、それを成し遂げたとしても、カントに言わせれば、それは利己的な感情に流された結果に過ぎないので、まったくもって自由ではなく、自律でもなく、他律なのです。
カントが自律という場合の「自」とは、自らの肉体でも、感情でもなく、理性のことを指しているのです。つまり、利己的な都合によってではなく、前回に触れた道徳的根拠であり、理由によって、行為をなしたところに自律であり、道徳的善性が認められるのです。