(new!) オンライン講座の受講生募集

4月26日(金)から、NHKカルチャーセンターでオンライン講座を担当します。カントや倫理学に対する事前知識があっても、なくても構いません。対話形式で進めるので、みなさんの理解度や関心にそって講座を進めていきます。

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カントの誤謬論

カント倫理学

前回の記事では、カントの言説を頼りに、理性には限界があること、誤りを犯すものであることについて触れました。

カントの興味深い点は、その誤謬についても考察を加えているのですが、誤謬のうちにも、それもどんなにひどい誤謬のうちにも、真なる部分があるはずであると言うのです。おもしろくないですか。

なぜいかなる誤謬にも真なる部分があると言えるのか

カント本人は以下のような言い方をしています。

だがある人間がまったく誤るということはありえず、彼の認識のうちには常に何か真なるものがある。あらゆる誤謬は、それゆえ部分的であって、と言うのも、まったく誤謬とは悟性と理性の諸法則に反するまったくの抵抗であるからで、これは悟性からはまったく生じず、それゆえ何ら判断ではないからである。『ベーリッツ論理学』

前回の記事では、感性に判断を下す権能はなく、理性(または広義の悟性)のみが判断を下せるのであり、そのため誤謬を犯す可能性を持つという話をしました。同じような構造で、感性に判断を下す権能はなく、理性のみが判断を下せるために、そこに真なる部分が認められうるのです。

理性は常に誤るという前回の記事の内容、また、どんな誤謬のうちにも真なる部分があるという今回の記事の中身を総合すると、私たちの判断というのは、完全に正しいということもなければ、完全に誤っているということもないということなのです。

現実世界を見回してみて

例えば、現在行われているロシアのウクライナ侵攻を見ていて、多くの人はロシアは誤っていると判断すると思います。私も誤っていると思います。しかし、ロシアが100パーセント間違っているのでしょうか。また前回の記事の内容に絡めると、ウクライナは100パーセント正しいのでしょうか。そこまで断定するのは言い過ぎだろうということです。だとすれば、いくら一見したところ、被害者と加害者が明らかであるように見えても、加害者の言い分にも耳を傾け、理解しようとする姿勢が必要なのではないでしょうか。

それは日常生活でも同じで、例えば、自分がひどいことをされたら、相手を非難したくなるでしょう。そして実際にしても構わないと思います。でも、その相手がなぜそのようなことをしてしまったのか考え、知ろうとすることもまた必要だと思うのです。そこに何らかの、ほんのわずかかもしれませんが、そうなってしまった理由の一端が垣間見られるかもしれないのです。

それを知ったところで許せない気持ちは変わらないかもしれません。でも共感でき、許せる面を見出すこともできるかもしれません。その可能性をはじめから閉ざすことはないと思うのです。

さいごに

世の中、勧善懲悪であり、白か黒、100か0に割り切れないものだと思うのです。私は物事を全肯定・全否定するような態度は、事実を過度に単純化してしまう思考の怠慢だと受け止めています。