(new!) オンライン講座の受講生募集

4月26日(金)から、NHKカルチャーセンターでオンライン講座を担当します。カントや倫理学に対する事前知識があっても、なくても構いません。対話形式で進めるので、みなさんの理解度や関心にそって講座を進めていきます。

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思考過程の正しさについて

カント倫理学

前々回の記事において、アリストテレスと絡めて、どんなに輝かしい活躍している野球選手でも、その卓越性は道徳的善性を意味しないことについてまとめました。

アリストテレスにおける卓越性と道徳的徳の関係性について
私は、アリストテレスについて、卓越性を道徳的善と見なす論者として解しています。だとすると大谷翔平選手のような卓越性を備えた人物は道徳的善をも備えていることになります。他方で、そのようなアリストテレス解釈は成り立たないという批判の声もあります。その批判の是非について検討してみたいと思います。

卓越性において良いということと、道徳的に善いことは別物であり、区別すべきなのです。それに関連して、前回の記事では、結果の良さとプロセスの良さも混同すべきでないことについて論じました。

カントにおける卓越性と道徳的徳の関係性について
世の中には「よい」と言われるものがさまざまあります。イマヌエル・カントは具体的にどのようなよいものがあるのかについて列挙して、説明しています。前回の記事で取り上げたアリストテレスと絡めて「よい」とは何なのかについて考えてみたいと思います。

ただ一言で「プロセス」と言っても、いろいろあります。前回の記事では、動機や意志といったものを念頭に置いていましたが、今日は「考え方」という面にスポットライトを当てて考察を加えてみたいと思います。

世の中は、考え方が正しかったからといって、必ずしも結果が伴うというわけではありません。私からすると当たり前すぎることなのですが、哲学・倫理学の議論を見ていると、両者が区別されずに論じられることも少なくありません。

古典的功利主義者たち

古典的功利主義者に分類されるジェレミー・ベンサムや、ジョン・スチュワート・ミルは、幸福の総量を増加させるべきことを説きます。しかし、それに努めたからといって実現するとは限りません。ところが、私にはどうも彼らがそういった可能性を想定した上で議論しているようには見えないのです。むしろ、考え方が正しければ、結果もついてくるはずと思い込んでいる節があるのです。

例えばミルは、以下のようなことを述べています。

溺れている同胞を救う者は、道徳的に正しいことをしているのであって、その動機が義務から出ていようと、報酬目当てであろうと、関係ない。(ミル『功利主義論』)

功利主義とは社会全体の幸福の総量を増加させることを善とする学説ですが、実際には、溺れている人を助けたからといって、それが必ず幸福の総量の増加に結びつくわけではないはずです。例えば、そこで助かった人が将来とんでもないことをしでかすかもしれないからです。そのため幸福の総量が減少する事態だって起こりうるはずなのです。

ところがミルのテキストのうちには、正しく考えさえすれば、未来は見通せるはずと主張しているように読める箇所があるのです。例えば、以下のような文面です。

「行為の道徳性は、予見可能な(foreseeable)結果によって決まる」(ミル『ベンサム論』)

予見可能な結果とは何なのでしょうか。そんなものあるのでしょうか。もっともデカルトの方法論的懐疑でも用いない限り、ペンを持ち上げて離せば、そのペンは落下するということくらいは認めてもいいでしょう。しかし、私たちが普段の生活のなかで取捨選択しなければならないことはそんな単純な事柄ではありません。功利主義者であれば、幸福の最大化を図るべきということになりますが、何が幸福に資するかということは誰も確実なことは分からないのです。

カントは何が自身の幸福に資するのかということについて以下のように述べています。 

幸福を求めるという格率に従うところの意志は、何を決意したらよいのか分からなくなって、さまざまな動機の間を右往左往することになる。彼は効果を期待しているのであるが、その効果なるものは甚だ不確実なのである。(カント「理論と実践」)

カントは自身の幸福ですら、どうすれば結びつくのか、はっきりしたことは分からないと語っているのです。ましてや、自分以外も含めた社会全体の幸福などという壮大な話になれば、余計に分からないことだらけでしょう。ここには必ず偶発性が絡んでくるのです。

(いくら深淵で、そして、正当な仕方で)考え、企図したからといって、それが実を結ぶわけではないのです。本サイトや自著においてすでに触れたことのある結果功利主義と過程功利主義の区別もここに起因します。

功利主義者は「結果」という語で何を指しているのでしょうか?
結果さえよければいいのでしょうか?それとも結果への考慮や内容の妥当性も問われるのでしょうか?もしくは結果への考慮や内容の妥当性があれば、結果そのものは伴わなくてもよいのでしょうか?

考えた内容は妥当なものであったものの結果が伴わなかった場合の善性についてどう評価すべきなのでしょうか、反対に、意図していなかったのに偶発的にすばらしい結果がもたらされた場合の評価はどうなるのでしょうか。このような問いは、功利主義にとって極めて重要な問題を孕んでいるはずなのですが、ほとんど議論されることがありません。私としてはもっと活発に議論されることを望みます(ただベンサムやミルがどちらかに属するかのような主張には無理があり、彼らを乗り越えて(彼らが曖昧な書き方をしていることを批判的に認めた上で)功利主義がどうあるべきかという方向で議論すべきだと思います)。

アリストテレス

さてアリストテレスは二千五百年近く前に活躍した哲学者ですが、それでも思考過程の正しさと、結果が伴うかどうかはまったく別問題であることを的確に見抜いていました。彼はまず以下のように述べています。

「すぐれた仕方で思案した」ということは善いことのひとつだと思われる。(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)

アリストテレスはここで、考え方が正しければそれ自体に価値があると言っているのです。その裏返しとして、考え方は誤っていたのに、望ましい結果がもたらさることがあることについても指摘しています。

他方、偽りの推論によって偶然善に到達することもある。(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)

アリストテレスにとっての「善」とは、自身が幸福になることです。もし幸福を企図しているのであれば、思考過程が正しければ正しいほど、それが実を結ぶ可能性は高くなるということは言えるでしょう。しかし、そこに必然的な結びつきがあるわけではないのです。

私たちの生活に応用する

それが例えば、売上、勝利、合格といった結果を求めているにしろ、その先にある幸福を求めているにしろ、はたまた道徳的善を求めているにしろ、それらに至るまでの思考過程が正しいかどうかの判定を下すには、①主体が自らの考え方を明らかにする、②他者はその考え方に耳を傾けて、中身を分析するという二つのステップが必要となります。

ところが現実には、行為主体が自分の考え方についてまったく説明しない、それにもかかわらず他者が行為主体の考え方の判断を下すという、二重におかしな事態が散見されます。加えて、第三者の意見がまったく的外れでも、当事者が黙っているとしたら三重におかしなことと言えます。

このことはすでに、サッカーと絡めて論じたことがあります。

審判の説明義務について
なぜブンデスリーガの審判は自分の裁いた試合の判定の根拠について口にしないのでしょうか。メディアは話を聞こうとするはずであり、出てこないということは、上(ドイツサッカー協会か審判組織?)が止めているのか、もしくは、本人が避けているのだと思います。しかし、そんなことをすることにどんなメリットがあるのでしょうか。私は負の側面の方が大きいと思っています。

同様の議論を今回は、先日行われた東京オリンピックの野球と絡めて話を進めたいと思います。

問題提起

東京オリンピックで野球は結果的に金メダルを取りました。しかしその過程に目を遣ると、すでに大会がはじまる前の選手選考の時点で、実績重視であり、今現在良い成績を残している選手が選ばれていない点が指摘(批判)されていました。そして、大会がはじまった後も、スタメンや選手の交代や試合運びに関しても、見ていて疑問符のつく場面がたくさんありました。

大会は終わり、チームは解散しており情報漏洩によって相手を利するということはないのですから、内部にいた人間はその判断の根底に流れる考え方について説明すべきだと思います。ところが、当事者たちはあまり口を開こうとしません(口を開いても表面的なことしか言いません)。

この原因は、監督や選手のみに帰せられるものではなく、金メダル獲得という結果によって、過程に目を遣らずに、賞賛一辺倒の解説者等の関係者やメディアの責任も大きいように思えます。結果によって、過程を正当化したり、批判したりするというのは結果論でしかありません。そこには中身や哲学はなく、そうである以上、そこから何も学び取ることはできません。未来につながっていかないのです。

具体的なケースを取り上げて見ていきたいと思います。

ケース① わざとクロスプレーにするメリットはあるか?

準決勝の韓国戦で、近藤選手が二塁ランナーのときにキャッチャーからの返球にギリギリ帰塁してセーフになるというシーンがありました。韓国ベンチはリプレー検証を要求し、結果的には判定は覆らずにセーフのままでした。このことは単にアウトにならなかっただけではなく、リプレー検証によって判定を覆すことができなかった韓国ベンチはリプレー検証を要求する権利を失ったことになり、結果的には日本にとって有利な判定となりました。

しかし、このプレーに関して近藤選手を褒める意見が散見されることには違和感を覚えます。相手を揺さぶるためとか、悪送球を誘うために、わざと飛び出すということもないとは言えません。しかし、リプレーを見た印象では、キャッチャーからの送球に近藤選手は意表を突かれ、そのため反応が遅れているように見えます。そして、タイミングは本当にギリギリでした。とても計算してやったようには見えません。

近藤選手自身がまったく同じプレーをしているのに、セーフになったら批判しない、それどころか褒める、反対に(キャッチャーからの送球がもう少し早かったり、コントロールが良かったりしていて)アウトの判定になっていたら、批判するということであれば、それは結果論以外の何ものでもありません。

結果のみからプレーの良し悪しを判断すべきではなく、近藤選手の言葉を聞かなくては私たちはあのプレーに至った是非について正確に評価すること、云々することができないはずなのです。そのため近藤選手には口を開いてほしいと思います。

ケース② 内側にオーバーランするメリットはあるか?

同じ試合で、近藤選手が一塁を内側にオーバーランしたため、韓国の選手が進塁の意思ありと判断して、近藤選手にタッチに行くというプレーがありました。結果的にはセーフの判定でしたが、これもその結果を受けて「近藤のプレーには何も問題なかった」だとか「近藤はルールをしっかり分かっていた」といった肯定的意見があるのにも驚きを禁じえません。

真面目に反論すると、内側にオーバーランすることのメリットはゼロであり、反対に、アウトにされるリスクだけがあるプレーであり、そのため、あれは間違いなくミスです。「あのプレーが韓国にダメージを与えた」などという意見も目にしますが、そんな事前に計算できるはずのない理屈を引っ張り出して正当化しようとすることが結果論であると私は言っているのです(もしそんな理屈が成り立つのであれば、わざとリスクを負ってアウトになりなねないプレーをして、ビデオ判定に持ち込み判定は覆らないという戦術が成り立つことになります。でも誰もそんなアホなことしないでしょう)。

ランナーに進塁の意思があるかどうかの判断は審判の主観に委ねられているため、近藤選手がアウトになる可能性は十分にあったわけです。あの場面は近藤選手が一塁に戻りはじめてからタッチされたのでセーフと判定されましたが、もしもう少し韓国人選手の反応が早く、近藤選手が一塁方向に向かう、もしくは体を一塁方向に向ける前にタッチされていたら、おそらくアウトにされていたと思います。

近藤選手はなぜそんなリスクのあることをしたのでしょうか。駆け抜けた後でセーフのゼスチャーをする審判に目を遣っているので、自分がアウトだと思い込んでいるということはないと思います。走り抜けた先には誰もおらず、誰かを避けるために内側に避けたようにも見えません。ではなぜ一塁線から三メートルも離れたところを歩いてしまったのでしょうか、やはりここには説明責任があると思います。

ケース③ そもそもなぜ近藤選手を使ったのか?

同じ試合で近藤選手は守備でもエラーを犯しました。そして、それが失点につながってしまいました。しかし、そもそも稲葉監督は、なぜ近藤選手をレフトで使ったのでしょうか。

北京オリンピックでまさにレフトが本職ではないGG佐藤選手にレフトを守らせてエラーを連発したという出来事がありました。近藤選手も今シーズンはほとんどレフトを守っていません。レフトが本職で安定感のある吉田選手がいるのに、彼をDHに入れて、不慣れな近藤選手をレフトの守備につかせるというのは、その意図が図りかねるものとして映ります。

稲葉監督はこの点について説明すべきだと思います。説明しなければ、本当に判断ミスなのかどうか私たちには判断することができないからです。

たまたま勝ったからこの点を批判しない、もし負けていたら批判していたという態度には、何の中身も哲学もなく、そこから学ぶことも何もありません。

まとめ

現状の監督や選手が説明責任を果たさない状況では、例えば、近藤選手のプレーを見た若い選手が「あれは許されるんだと」思って、その後で大事な試合で(そんなことをするのに何のメリットもないのに)実際に内側をオーバーランしてしまいタッチされてアウトになるという(つまり同じミスが繰り返されるという)事態が起こりかねないのです。

そこでアウトを宣告された選手は「いや、近藤選手はアウトにならなかったじゃないか!」と訴えるでしょうが、繰り返しになりますが、そんなのは審判の主観であり、実際にはアウトになる可能性は十分にあったのです。

しかし、もし仮に近藤選手が、例えば、あのときは自分が凡退したことで頭が真っ白で何も考えられない状態であったことを告白し、あそこまで内側に回り込むべきではないことを注意喚起すれば、①真似をする人は出てこないはずです。加えて近藤選手が、凡退しても気持ちを切らさずに集中し続けることの重要性について、そして、それができるかどうかで試合が決することもあることについて語れば、②将来、近藤選手の言葉を思い出して、気持ちを切り替えることにつながるということがあるかもしれません。そうなれば(そうなってこそ)近藤選手の経験が糧となって活きてくるのです

自分たちで都合の悪いことには蓋をするのではなく、また、周りもおだてるだけではなく、しっかりと内容を精査して、ダメなところはダメと言い、改善すべき点と、その方向性を示し、未来につながる生産的なやり取りをなされることを期待します。

ちなみに先ほど名前が挙がったGG佐藤選手ですが、彼は北京オリンピックでの状況について積極的に語っています。戦犯扱いされた彼でさえ口を開いているのですから、結果がついてきた東京オリンピックの当事者たちには批判されることを覚悟する勇気を持ってほしいと思います。