(new!) オンライン講座の受講生募集

4月26日(金)から、NHKカルチャーセンターでオンライン講座を担当します。カントや倫理学に対する事前知識があっても、なくても構いません。対話形式で進めるので、みなさんの理解度や関心にそって講座を進めていきます。

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倫理学とは「〇〇しろ」「〇〇するな」の羅列ではない

カント倫理学

前回の記事と関連するので、まずおさらいから入りたいと思います。

おさらい

アリストテレスは無鉄砲でも臆病でもなく、その中庸であるところの勇敢を徳と見なします。しかし「勇敢であれ!」と言ったところで、それが何を意味するのか判然としません。

これは前回の記事においても挙げた例ですが、東京オリンピックの開催前に、賛成派は「実施する勇気を持て!」と発言し、反対派は「辞退する勇気を持て」と言い募っていました。「勇気」という言葉で正反対のことが意図されているのです。

また先日、私は子供に『ライオンキング』を読んであげました。そこには子ライオンが親ライオンから聞いた「勇気」という言葉の意味を取り違えるというシーンが出てくるのですが、私に言わせれば、その原因は父親の真意を把握し損ねた子ライオンにではなく、ちゃんと説明しなかった父親自身にあるのです。

説明なしに、ただ「勇気を持て!」とだけ言われても、言われた方は何が意図されているのか分からないのです。

「自殺」や「嘘」も何を指すのか曖昧

「そのため、倫理学というのは性格・性向を求めるのではなく、具体的な行為を記述すべきなのだ」というようなことを言う人がいますが、私はそれも違うと思っています。

多くのカント研究者が「自殺や嘘は悪」といった立場をとります。つまり「決して自殺してはいけない」「絶対に嘘はつくな」ということです。この時点で常識的倫理感から受け入れがたいものと言えますが、ここで問題視したいのは「勇敢であれ!」ほどではないにしろ、その中身が依然として曖昧である点です。

例えば、自殺に関していえば、たばこやアルコールや脂っこい物などを医者から止められているのに取り続けるようであれば、程度によっては自殺との線引きが難しくなってくるでしょう。嘘に関しても、いくらでも曖昧な言い方は可能であり、明確な線引きができるとは思えません。

ただ「線引きができないから無意味」と言うつもりはありません。そのテーマについては一度論じたことがあります。

カント自身は自身の考えについてどれだけ理解していたのか
「分かる」と「分からない」の間に線引きなどできるのでしょうか。他人の考えのみならず、自分の考えですら、「分かる」と「分からない」の間には線引きなどできないのではないでしょうか。だとすれば、カント自身も、自らの哲学であり、倫理学に関して、実はよく分かっていないということがありうるのではないでしょうか。

たとえ特定の行為の禁止が導けたとしても困難は解消されないということであって、本質的な問題は、そして、ここから掘り下げたいのは(それを導く)基準そのものがすでに曖昧な点にあるのです。

普遍化によって生じる矛盾とは?

なぜ多くのカント研究者が自殺や嘘は一切許されないと主張するのでしょうか。それはカントが、行為原理が普遍化された際に「矛盾」が生じるようであれば、その行為原理は採用すべきでないという趣旨のことを言っているためです。

しかし、そこで言われる「矛盾」とはいかなることなのでしょうか。これが何を指すのかよく分からないのです。

カント自身は当初、行為原理が普遍化された際に「考えることすらできない」事態が到来するという言い方をしていました。

その具体例としてカントは虚言を挙げます。もしみんなが虚言を吐くとすれば、言明すべてが偽であることは明々白々なので、誰も、そして、いかなる言葉も信じなくなるはずであり、だとすれば嘘をつこうとするものはいなくなるだろうと言うのです。しかし、確かにそれは不合理な世界ですが、実際にはみんなが常に嘘をつく世界を私たちは想像することができます。あれれ?なわけです。

そのためカントは、嘘について云々する文脈では、考えられるかどうかを問題とせずに「行為原理が自家撞着する」「目的そのものが雲散する」といったことを言い出すのです。さらに言えば、別の箇所では「いや、みんなが(困ったときに)うそをついても、それでもうっかり言明を信じてしまう人がいるかもしれない」とした上で、別の基準を持ち出すという迷走ぶりなのです。

カントは自殺の禁止についても語っているのですが、これも何だか分からない理屈で、「自然が自家撞着する」と表現するのです。しかし、ここで言われる「自然」というのは唐突に出てきたものであり、何を指すのかよく分からないのです(そのため研究者によって解釈が分かれることになるのです)。

責任の所在

ここにカント自身の責任は免れないと思いますが、少し彼を弁護すると、カント本人は当該箇所が考え中の案件であることを認めているのです。そのため私はむしろその責は、それがあたかもカントの最終的な立場であるかのように、そして、有益な基準であるかのように取り扱う(しかし、整合的な説明ができるわけがないので、その記述は説得力を欠くものとなってしまう、そのようなものを書く)研究者の側にあると思っています。

カント倫理学・義務論の批判者がそれをするというのであれば、まだ分かります。私は何度も説明するつもりです。しかしながら現実には、カントは自殺や虚言の一切を禁止しているなどというカント倫理学の根幹に矛盾をもたらし、私たちの常識的倫理感からも乖離し、さらに(これが最終的な立場ではないという)カント自身の言葉を無視するような解釈を多くのカント研究者が提示しているのです。カントを貶めるようなことはもうやめてほしいと思います。

参照

この記事にある説明だけでも十分だとは思いますが、この件に関しては関連することを以前にも書いたことがあるので、興味がある方はそちらも参照してみてください。

みんながそれをやったらどうなる?
「みんなが君と同じことをしたら困ったことになるだろ」「君がその行為をするのはみんながしないことを前提にしているんだ(君は自分を例外視しているのだ)」ということを言う人がいます。しかし私は思うのです。だからなに?

倫理学とは、理論を提示するものであるはずです。問題は、その理論が(状況を無視して)特定の行為を命令したり、禁止してりするということがありうるのか、ということなのですが、私は(カントに限らず)ありえないと思っています。「ありえない」というのは、そのようなことを主張する人はいるかもしれないが、その言明が妥当性を持つことは「ありえない」という意味です。