前回の記事に引き続き、感情、とりわけ、同情心についての、ショーペンハウアーによるカント批判について、その妥当性を吟味していこうと思います。
復習(同情心について)
まずは前回の記事の復習からはじめたいと思います。ショーペンハウアーは同情心からの行為に倫理的価値を見出します。そして、彼に言わせると、カントは同情心の役割をまったく理解していないのです。
〔カントは〕同情心を持つことなく、他人の苦痛に対して冷淡、かつ、無関心(ショーペンハウアー『道徳の基礎』)
確かにカントは、同情心からの行為に倫理的価値を認めません。なぜなら、同情心とは感情であり、それが湧くよう自らの意志でコントロールできるようなものではないからです(前回の記事においても触れましたが、「同情心から行為しようと意志することはできない」という点で両者は意見は一致しているのです)。
カントの言い分(同情心について)
ただし、カントはそこに何の価値も見出していないということではありません。間接的な義務を見出しているのです。間接義務の役割についてはすでに論じたことがあります。
ここにも簡単にまとめておきますと、カントは間接義務の一例として、自身の幸福の確保を挙げています。なぜそれが間接義務たりうるのかというと、自身が不幸な状態にあれば、倫理的悪へのリスク、ならびに、倫理的善への足枷を抱えることになるからです。それを避けるために、自身の幸福の確保に努めることは倫理的義務ではないものの、間接的な義務と見なされるのです。
カントは同情心についても、このような間接義務たりうると言うのです。
我々のうちに宿る共苦の自然的(感覚的)感情を涵養し、それを道徳的原則およびそれに即応する感情にもとづく同情への仲立ちとして利用するということは、やはり他人の運命に能動的に共感することであり、それゆえ、結局は間接的な義務なのである。(カント『人倫の形而上学』)
この種の義務を理解するための具体的行為として、カントは社会的な弱者、例えば、貧しい人や病人や罪人のもとを訪れることについて言及しています。それによって同情心が芽生える機会が生まれ、それが倫理的善へのきっかけとなる可能性があると考えられているのです。
動物倫理(感謝の念について)
積極的に接するべきは、なにも人間に限ったことではありません。動物に対しても同じことが言えます。
ショーペンハウアーは、しばしば動物愛護の論者として名前が挙がります。彼は動物も同情の対象になることを説いているためです。しかし、私はなぜそこでカントの名前が挙がらないのか不思議でなりません。私に言わせれば、カントは少なくともショーペンハウアーと同程度に動物愛護の論者であるためです。
カントは間接義務と絡めて人に対する同情心について語っていますが、動物に対しては感謝の念と絡めて説いています。
長年奉仕してくれた老いた馬や犬に対しても(それが家族の一員であるかのように)感謝の念を抱くことですら、間接的には、すなわち、この動物に関する人間の義務に属している。(カント『人倫の形而上学』)
弱い立場の人間と接することによって同情心が芽生えるのと同様に、動物と接することによって感謝の念を抱くことができると言えます。
カントは当時、駆除の対象であった狼ですら積極的に接することによって、ぞんざいな扱いはできなくなるであろうことを説いているのです。
人は動物を観察すればするほど、また動物と行動を共にすればするほど、それだけますます動物たちが好きになる。いかに熱心に動物たちが自分たちの子のために配慮しているかを目にすれば、そのとき人は狼に対して残酷な考えは持てなくなる。(カント『コリンズ倫理学講義』)
動物に関して、カントは(今から200年以上も前であることを考えれば)かなり先進的なことを述べていると言えるはずです。
現代の先進国においてすら、動物虐待や動物実験が行われています。しかしカントはそういった態度に対しても苦言を呈しています。
動物を手荒に、そして同時に残忍に取り扱うことは、さらに一層心の底から人間の自分自身の義務に背いている。(カント『人倫の形而上学』)
単なる考察のためだけの苦痛の多い生体実験は、目的を遂げるのに敢えて必要ではない場合には避けるべきである。(カント『人倫の形而上学』)
誤解のないように断っておきますと、カントは動物虐待については完全に否定的ですが、動物実験に関しては全否定しているわけではありません。あくまで生産性のないもののみを退けているのです。
カントが活躍していた頃は、デカルト以来の「動物は動く機械」、すなわち、「人間の好き勝手に扱って構わない」という考えが幅を利かせていた時代です。そのことを考えると(繰り返しになりますが)カントは先進的なことを言っていると私は思うのです。
ショーペンハウアーはカントの何が気に食わないのか?
今回の記事では、同情心や感謝といった感情や、動物に寄り添った姿勢を示しているカントのテキスト『人倫の形而上学』からの引用が多くなりました。ショーペンハウアーの立場に鑑みると、カントのこの著作を高く評価してもよさそうなものなのですが、反対に、彼はこれをカント晩年の「失敗作」と見なし、まったく評価しないのです。
〔カントの〕『人倫の形而上学』であるが、これは老衰の影を覆うべくもない。(ショーペンハウアー『倫理学の基礎』)
ショーペンハウアーがカント晩年の著作の何が気に食わないのか、正直私にはよく分かりません。冒頭に引用したように、ショーペンハウアーはカント倫理学が同情心を欠き、他人の苦痛に対して冷淡で無関心と述べているのですが、その論拠が示されているとは言い難く、カントの説く間接義務についての言及も見当たりません。
私はショーペンハウアーの評価に反して、カントは人間にのみならず、動物に対しても感情に関心を払い、寄り添う姿勢を見せていると思うのですが、みなさんはどのような印象を持ったでしょうか。