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自分ではどうすることもできない側面に倫理的善が存するならば | カントに学ぶ意志の倫理学

自分ではどうすることもできない側面に倫理的善が存するならば

schopenhauer and freeカント倫理学

前々回の記事において、カント倫理学においては、愛や同情心といった自身ではコントロールすることのできない感情のうちには倫理的価値は認められないという話をしました。その流れで、前回の記事では、愛や同情心にあふれた性格のうちにも倫理的価値は存しないという話になりました。

ところがショーペンハウアーは、このようなカントの立場を真向から否定します。彼は同情心からの行為に倫理的価値を認めるのです。

共苦〔=同情心〕からの行為のみが、道徳的価値を持つのである。(ショーペンハウアー『倫理学の基礎』)

では、どうすれば人は同情心から行為することができるのでしょうか。カントであれば(感情とはコントロールすることができないものであるため)「どうすることもできない」と言うでしょうが、ショーペンハウアーはどうなのでしょう。

結論を言うと、やはり「どうすることもできない」のです。

ショーペンハウアーは、同情心から行為するように自分を仕向けることはできないし、持って生まれた性格も変わらないと言うのです。彼の文章は持って回ったような言い方で論旨がとりにくいので、ショーペンハウアー協会会長のマティアス・コスラーが簡潔にまとめた文面を引用しておきます。

従って、行為の仕方は、生まれつき決定しており、道徳的により善くなることや合理的な洞察を通じて性格を変える可能性は排除されているのである。つまり、ショーペンハウアー哲学において、叡智的な(無差別の)自由の余地はないのである。(コスラー『経験倫理とキリスト教倫理』)

本来、自身を道徳的善に駆り立てることができないことや、自分の性格を変えることはできないこと、そのため、より倫理的善をなすことができないということは、人間に自由がないことを意味しないのですが、ショーペンハウアーのなかでは直結するのです(この点もツッコミどころなのですが、本題から逸れるのでスルーします)。

このような立場を前に、高名な倫理学研究者であるエルンスト・トゥーゲントハットは以下のような問いを発しています。

ショーペンハウアーの倫理についての考察はそもそも倫理学の名に値するのか?(トゥーゲントハット『倫理学講義』)

トゥーゲントハットは「倫理学」という語の定義によっては可能であるかもしれないが、規範システム(Normensystem)と解する一般的な意味としてはその名に値しないと結論付けています。

私自身も、倫理学が人の生き方について云々しておきながら、もしそれが現実への耐性を一切備えていないとすれば、そこに何の意味があるのか、その存在意義は何なのかと問わざるをえません。

ショーペンハウアー自身は、(自身の)倫理学の目的について以下のように語っています。

倫理学は人間が現実にどのように行為するかという問題には関わらず、人間がどのように行為すべきかを提示する学問であるという反論がここで出てくるかもしれない。しかし、これ(この原則)こそ、まさにわたしの否定するもの(原則)なのである。(ショーペンハウアー『倫理学の基礎』)

つまり、ショーペンハウアーは、倫理学は「現実に私たちがどう行為するか?」(事実)という問いについて明らかにするだけであり、「どうすべきか?」(当為)という問いについては扱わないと言っているのです。彼に言わせれば、倫理学なんて、生きる上での何の足しにもならないのです。

以前にショーペンハウアーが「カント倫理学には大火災の際の浣腸器ほどの効用しかない」という批判を展開していることについて紹介しました。

自身の行為の動機について知りうるのか
私たちは自身の動機について知りうるのでしょうか。もし知りえないのであれば、本人は善意志から行為したつもりでも、実際には利己的に行為しているということが起こりうるのではないでしょうか。

他人の倫理学説についてはその微々たる効用について批判しておきながら、自分の立場については、「何の効用も期待するな!」と言っているのです。そりゃないんじゃないですか、ショーペンハウアーさん。

このことに関連して、ショーペンハウアーは以下のようなことも述べています。

哲学者〔=倫理学者〕が聖者となる必要はないのと同じように、聖者も哲学者となる必要はない。それはちょうど、完全に美しい人間が偉大な彫刻家であったり、偉大な彫刻家がそれ自身として美しい人間であったりする必要がないのと同じである。(ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』)

彼に言わせれば、倫理学は「いかに生きるべきか?」という問いに関わらないのですから、そうである以上、倫理学者が倫理的に振舞う必要などないという主張は必然的な帰結として映ります。

ショーペンハウアーの論証の仕方も、たとえも、おかしいというのが私の見立てなのですが、私の意見ばかり並べるのもどうかと思うので、最後くらいは読者に丸投げしたいと思います。

ショーペンハウアーの言明はどこが、どうおかしいのでしょうか?
もしくは、ちっともおかしくないと思う人がいますか?

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