続・殺人すら責任が問えないケースについて

Good Samaritanカント倫理学

前回の記事では、理性によってではなく、感性から本能的に殺人鬼に立ち向かうことの道徳性について考察を加えました。

カント倫理学の建てつけでは、そこに道徳的価値を見出すことはできません。カントは、それが非利己的であることを自覚する意志のうちに善性を見出すためです。そういった考慮を経ない、体が勝手に動いたような行為は「たまたまそうなったに過ぎない」と受け止めるのです。

この理性や意志の介在しない行為に善悪を認めない立場に異を唱えた人物がいます。詩人として有名なフリードリッヒ・シラーです。

シラー
シラー

どーも

シラーは、カントの言う非利己的な意志の道徳的価値を認めながらも、思い煩うことなく自然と道徳法則に適う行為により一層の価値を見出したのです。

シラー自身の挙げる例を紹介すると、非利己的な意志から行き倒れになっている人に手を貸す行為より、何も考えることなく自然と行き倒れになっている人に手を差し伸べる行為の方が上位であるとしたのです。 

つい最近、カントの理性と感性という二元論に対する批判があることについて触れました。

良心の役割
カントは良心の働きについて、内的な法廷における原告の役割を担うものとして説明します。しかし、同時に、裁判官の役割も担うと言うのです。原告と裁判官が同一人物というのは問題ないのでしょうか。またカントは、理性が原告と裁判官、感性が被告の役割を担うと言います。しかし、理性と感性の間に本当に線引きなどできるのでしょうか。これらの疑問に対峙しながら(カントの考える)良心の役割について明らかにしていきたいと思います。

シラーはまさにその点を批判し、理性と感性が調和する状態を理想としたのです。シラーはそのような状態を道徳的善と美を兼ね備えるものとして「美しい魂」の状態と表現するのです。

読者のみなさんはシラーの立場に共感できますか?

私たちはどのようにして美しい魂の状態に至ることができるのか。

一見したところ、シラーが主張するような、本能的に困っている人に手を差し伸べることができるのはすばらしいこととして映るかもしれません。

しかし、すぐに気が付くことは、シラーの説く美しい魂の状態に至るための直接的な努力は私たちにはできないことです。なぜなら、何かをしようと努めた時点で理性的な行為であることになるからです。

シラーは決してカント倫理学の意義を全否定しているわけではありません。彼は自らがカント主義者であることを公言していることからも、基本的にはカント倫理学に沿って振舞うべきと考えることができるでしょう。

シラー
シラー

私はカント主義者です。

つまり、カントに倣って、自分で考え、判断を下すべきなのですが、カントとの違いは、それを繰り返すうちに、いつしか自分で考え、判断を下す必要もなく、思い煩うことなく行為できるようになると考えている点にあるのです。

それは両者の道徳的善が「容易」(Leichtigkeit)となりうるかどうかの見解のうちに明確に表れていると言えます。

もし容易さが慣れ、すなわちしばしば繰り返された行為によって必然的なものになった行為の単調さであるならば、それは自由に由来する熟練ではなくて、従ってまた道徳的熟練ではない。(カント『人倫の形而上学』)

カントはある行為を繰り返すうちに道徳的善が容易になるとは考えていません。他方でシラーはその可能性を認めるのです。

本能だけから行動しているかのように、容易にそれ〔=美しい魂〕は人間の最も細かい義務をなし、そして、それ〔=美しい魂〕が自然の衝動から得ている最も英雄的な犠牲は、まさに動機の自発的効果のように際立つのである。(シラー『尊厳と優美』)

しかし、本当にシラーの言うように、道徳的善が容易になることなどあるのでしょうか。私は懐疑的な立場を採ります。その理由として以下に三点の問題点を挙げてみたいと思います。

異論①誤った行為をしてしまう可能性

私は大学生の頃、駅前を歩いていて、中年のおじさんに話しかけられたことがありました。財布を落としてしまったので、家まで帰る電車賃を恵んでほしいと言うのです。私はそれはかわいそうだと思い、数百円渡したのでした。

しかし、次の日にまた同じ人が私に話しかけてきて、同じことを言うではありませんか。つまり、彼はそうやって人を騙して、小銭を集めていたのです。私の顔を覚えておらず、また騙そうと寄ってきたのです。

それ以降、私は困っているように見える、そのことを訴える人を目にしても、すぐには信じなくなりました。つまり、理性を働かせるようにしたのです。そうしなければ、その後も同様の手口で騙され、悪人の懐を潤わせることになってしまうからです。

まったく同じケースで何度も騙されることは考えにくいですが、世の中には他人を騙そうとしている人間がたくさんいること、その罠はいたるところにあることは残念ながら認めざるをえないでしょう。そのような現実を考えると、一見困っているように見える人の前でも常に理性を働かせて対応すべきだと私は思うのです。

異論②行為の質が劣化する可能性

理性や意志を駆使して、人助けをしていれば、そのうち自然とできるようになるという主張もかなり怪しいと私は思っています。

例えば、子供の頃、自転車に乗りはじめたときには、誰もがさまざまなことに気を使い、注意を払って運転していたはずです。つまり、理性であり、意志を働かせていたはずなのです。ところが、長い年月自転車に乗っていると次第に慣れてきて、惰性になってきます。すると運転の質は劣化することになるのです。

そういったことを避けるためには、やはり定期的に理性を働かせて、自分の運転の質が低下していないか自問する必要があるのではないでしょうか。

 

 

 

異論③動機の質が低下する可能性

これは異論②とも関係してくるのですが、理性や意志を介在させないということは、感情や不思慮によって行動することになります。するとそこに必ず利己性が入り込み、そして、それが次第に増大していく可能性があります。

カントは利己性のことを「傾向性」と呼びます。漢字を見て分かるように、「傾き」ということは資材にそちらに傾いていくということを意味しています。人間とは感情や不思慮で動いている限り、自分にとって都合の良い方向に向かってしまうものなのです。

例えば、当初は世の中のためを思ってボランティア活動をはじめたものの、そのうちその組織のなかにいることが心地よくなり、そして、自身の発言権を強くすることや、自分の価値観を押し付けることに拘泥してしまうといったことです。つまり、動機の質の低下とともに、行為の質も低下してしまうということです(異論③によって異論②が生じる)。

理性を用いて、自分を顧みない人間は、自分が利己的な方向に向かっていることにも気がつかないのではないでしょうか。

 

問題提起

以上のようなさまざまな理由から、シラーの主張には私は賛同できません。ただ、シラーによる本当にカントの言うように善悪は理性ならびに、それに発する意志にしか存在しえないのか、という問題提起は考察に値する問いであると思っています。機会があれば、どこかで改めて論じるかもしれませんが、今のところどこでどのような形でするかは考えていません。

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