前回の記事において、大学で哲学を学ぶ意義や目的についての話をしました。ここでも簡単に確認しておきますと、哲学に関して、学部レベルでは、先哲の教えを理解することに専念すればよいのであり、自分の考えを構築するのは大学院以降で十分だ、という意見があること、しかし、私はそのような意見に与することができないという話をしました。私のなかには、先哲の教えを諳んじることができるだけで、自分の主体的な立場がそこに反映されていないとすれば、その営みに何の意味があるのかという疑念があるのです。
もう一点、私が引っかかっているのは、それ(人の書いたものを理解することに拘泥する営み)は、そもそも「学問」の名に値するのか、という点です。
カントの立場
以前、学問に携わる者は「一つ眼の巨人」であってはならないというカントの言葉の意味について掘り下げたことがありました。
「一つ眼の巨人」とは、物事を一方向からしか眺めない人のことであり、それでは対象を正確に捉えることはできないのです。
今回はその話をもう少し広げていきたいと思います。
カントは学問(形而上学)における、「コペルニクス的転回」の重要性を説きました。今でこそ地動説を説いたことで有名なコペルニクスも、最初のうちは、太陽が地球の周りを回っているものと信じて、天体の動きを説明しようと試みたのです。しかし、それではどうしてもうまくいきません。そこで発想を逆転させて、地球が太陽の周りを回っていると考えてみたのです。すると、天体の動きをうまく説明することができたのです。
ここで鍵となるのが、カントの「仮象(かしょう)」という概念です。それは「仮(かり)の象(ぞう)」ということであり、つまり、そのように見えるが、実際はそうではないということです。「コペルニクス的転回」に絡めて言うと、私たちは地球から天空を眺めると、他の天体が地球の周りを回っているように見えます。しかし、その「見た目」が本当に真理を反映しているとは限らないのであり、そこに疑いの目を向け、正反対の可能性についても吟味を加えるということです。カントは、このようなコペルニクスが用いた思考法を、自然科学のみならず、すべての学問が取り入れるべきであると考えたのです。
分かりやく言えば、一方の視点のみから眺めるのではなく、まったく逆の視点から眺めてみるのです。その上で、主体的な立場を導き出すのです。さまざまな視点から考えることによって、はじめて他者からの反論に耐えられる、耐性を持った理論が導かれうるのです。
大学とは、そういった姿勢であり、スキルを身につけ、陶冶するための場所ではないのでしょうか。
なぜ学問的スキルが重要なのか
では、なぜ一方の視点に立つだけではなく、正反対の立場にも立って考えることが重要となってくるのでしょうか。
私は以前、小学校で学童保育のアルバイトをしていたことがありました。ある日、私は子供たちとサッカーをしていました。ある子供がシュートしたボールが、キーパーをしていた私の足に当たり、そのボールが別の子供に当たったのです。「当たった」といっても、その子供は特段痛がる様子もなく、そのまま遊びを続けていました。私は気にも留めていませんでした。しかし、その子供は家に帰って、親に向かって「私(秋元)にボールをぶつけられた」と報告したのです。それを真に受けた親が学童保育に通報し、学童保育の職員の方は私には事情を聞かずに、私をクビにしたのです。
なぜそうなってしまったのかというと、学童保育の職員は、まさにコペルニクス的な態度を欠けていたのです。つまり、彼らは子供からの一方的な意見を鵜呑みにして、それを疑うことをせず、そして、別の可能性についても考えず、価値判断を下してしまったのです。それで本当にいいのかと私は問題提起しているのです。
最後に注意点
ちなみに、このブログの記事を読んだだけで、「その学童保育けしからん」「秋元は悪くない」と言ってしまうのもまた、一方的な意見から価値判断を下してしまっているので、よろしくありません。どちらに、どの程度の正当性があるのかということは、双方の言い分を聞かなければ分からないはずだからです。
一方の視点のみに立つのではなく、その正反対を含めた、さまざまな視点に立って考えることは学問の世界のみならず、一般社会においても、それどころか、どこで何をしようとも必要となる姿勢であると私は思うのです。