奪われた感

反コロナカント倫理学

前回の記事では、旧東ドイツのザクセン州にあるバウツェン(Bautzen)という町の人々を紹介しました。反コロナの拠点のような町で、多くの人々がコロナ対策を怠った結果、爆発的な感染を引き起こしてしまったのです。

前回の記事を書いてから、自分でも気がついた(思い出した)のですが、私自身も昔、同じような過ちを犯したことがありました。まだ中学生くらいの頃に、学校の定期健診かなにかで、虫歯があると言われたのです。しかし、当時の愚かな私は「ちゃんと歯を磨いているのに、虫歯のはずがない」と思ってしまったのです。今から考えれば、「虫歯だなんて信じなくない」という感情があったのだと思います。放置していた結果、歯がボロボロと欠けてきてしまったのです。早く歯医者に行っていれば、ちょっとした治療で済んだはずだったのに、結果的にはずいぶんと痛い思いをして、神経を抜く羽目になったのです。

そこに欠けていたもの

バウツェンの人々も当時の私も、学問的姿勢が欠けていたのだと私は捉えています(つまり私は学問的姿勢を欠いていたために、歯が欠けてしまったのです)。カントの用語で言えば、(前回の記事に引用しました)「一つ眼の巨人」「学問的エゴイスト」になってしまっていたということです。

なぜカントがそれを「一つ眼の巨人」ならびに「学問的エゴイスト」と称するかというと、客観的に眺めることができておらず、自分の視点からしか眺めていない(そのため対象を正確に把握することができない)ために「一つ眼」なのであり、そこには自分の願望や希望が紛れ込んでしまっているために「エゴイスト」なのです。

差別と絡めて

バウツェンの人々が直面したコロナウイルスに対する、また、かつての私の虫歯に対する姿勢は、差別の話にも関わってくると私は思っています。

私の住んでいるドイツにおいて、コロナウイルスが流行りはじめた頃に、日本人が発生源の中国人と間違われて、罵声を浴びせかけられるということがありました。その人は中国人ではありませんでしたし、仮に中国人であっても、その人がウイルスをドイツに持ち込んだわけでも、感染を広めたわけでもありません。罵声を浴びせた側は、まったく事実を正しく認識できていないのです。

彼らは、「一つ眼の巨人であったために、誤認してしまった。情報不足に陥ってしまった」と言えます。しかし、それだけでは人を罵倒するところまでいかないと思います。ここにも学問的エゴイストの姿勢があったのではないでしょうか。例えば、「誰かのせいにしたい」「不満を誰かにぶつけたい」といった感情があり、それが表出してしまったのではないでしょうか。

奪われた感

ジャーナリストの安田浩一氏は、差別の根底には「奪われた感」があると言います。彼の挙げている例を紹介すると、ある保守系の団体は、生活保護受給者の大半が在日の韓国・朝鮮人であると主張しています。その情報だけを受け取って、自分で事実確認をしなければ、「奪われた感」を抱いてしまうかもしれません。それが人を追い出そうとしたり、人格を否定したりする差別につながってしまうのです。現実には生活保護に占める在日韓国人・朝鮮人の割合は全体の3パーセント程度なのです。

反対に、在日韓国人・朝鮮人のなかにも日本で高い地位を得て、活躍している人たちもいます。しかし、自分の人生がうまくいっていないと感じている日本人のなかには、「あいつらがいるから(自分がうまくいかない)」と思ってしまうこと、そして、この場合にも「奪われた感」を持ってしまうことがありうるのです。それがまた差別につながってしまうのです。

コロナウイルスのパンデミックに関しても、ロックダウンによって普通の生活が、まさに奪われた」のです。その気持ちをどこかにぶつけたいという気持ちは分かります。しかし、学問的姿勢を持たずに、つまり、一つ眼の巨人のまま、学問的エゴイストの姿勢で、誰かをやり玉に挙げるようであれば、事実を誤認し、差別を生み出す恐れがあるのです。

まとめ

日々の生活のなかで「奪われた感」を持ったとしても、そのやりきれない感情に流され、吐き出すのではなく、ひとまずは冷静になって、その原因について考えてみるべきなのです。その際、気をつけるべきは、一つ眼の巨人学問的エゴイストにならないように、そこに個人的な感情を紛れ込ませないように、主観的な視点からではなく、客観的な視点から眺めることなのです。その上で考えることなのです。

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