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カント倫理学とミルによる古典的功利主義の近似性について | カントに学ぶ意志の倫理学

カント倫理学とミルによる古典的功利主義の近似性について

Kant and Millカント倫理学

前々回の記事において、科学者としてすばらしい業績を残し、人類に貢献してノーベル賞を受賞したのであれば、彼の行為を倫理的善と見なすことにそれほど抵抗はないかもしれない、ということを書きました。

功利主義者は「結果」という語で何を指しているのでしょうか?
結果さえよければいいのでしょうか?それとも結果への考慮や内容の妥当性も問われるのでしょうか?もしくは結果への考慮や内容の妥当性があれば、結果そのものは伴わなくてもよいのでしょうか?

しかしながら、カントや私は、彼の行為に倫理的善性を見出すようなことはしません。なぜなら、当該記事において断ったように、その学者は自身の知的好奇心という主観的な欲求に従ったまでであるためです。

もしその学者の言葉が本心であるとすれば、もたらされた結果は意図したものではなく、たまたま・・・・人類に寄与したことになります。まったく逆の結果として、彼の好奇心が多くの不幸をもたらしてしまった可能性もあったことになるのです。

偶然・・ある行為が人類に貢献した場合には倫理的善であり、逆に、人々に不幸をもたらしたら倫理的悪であるなどという考え方は結果論でしかありません。私は倫理性的善悪というものは絶対的な尺度によって決まるであるべきであり、偶発的な要素によって決定されるべきではないと思うのです。

そもそも、いかなる行為がどのような結果をもたらしたかということは、ほとんどの場合、判定がつかないのではないでしょうか。例えば、アインシュタインの相対性理論、ならびに、彼のフランクリン・ルーズベルト宛の原子爆弾の開発への助言ともとれる手紙が、原子爆弾製造に影響したのか、したとすれば、どの程度の影響であったのかということは断定しかねる面があります。

私自身、よく自問するのは、私自身はこのブログを人々の生き方に貢献すると思って書いていますが、実際のところ、その影響のほどは分かりません。肯定的な感想を言ってくれる人もいますが、それが真意である保証はありません。あからさまに否定的なことを言ってくる人は今のところいませんが、伝えないだけで、不快に思っている人や、傷ついた人がいないとも限りません。私のこのブログが実際に人々にどのような影響を与えているのかということは、私自身にはまったくと言っていいほど分からないのです(まあ、影響力などほとんどゼロというのが実情だと思いますが…)。

何が言いたいかというと、厳密な結果功利主義を掲げて、実際にどの程度の幸福(または不幸)を生み出したのかということを倫理的善悪の基準とすると、その判定は非常に困難、ほとんど不可能なのではないかということです。

私自身は古典的功利主義者の賛同者ではないので、その陣営からは余計なお世話だと思われるかもしれませんが、個人的には古典的功利主義に肯定的な意味を見出そうとすれば、過程功利主義をとる他ないように思うのです。つまり、人々を幸福する意図を持ち、かつ、その考慮に妥当性があれば、その行為をなした時点で善性を認めるということです。

実際にそう解釈できる文面をミルのテキストのうちに見出すことができます。

行為の道徳性・・・は、その予見可能な結果によって決まる。(ミル『ベンサム論』)

ミルは「道徳性は結果によって決まる」とは言っていません。「予見可能(foreseeable)な結果によって決まる」と説いているのです。彼は具体例として、虚言を吐く者は、虚言の持つマイナス面を自覚できていないことを挙げています。もし、行為者が虚言がもたらす不幸への考慮の上で、虚言を思いとどまるのであれば、その時点でその行為は倫理的に正しいことになるのではないでしょうか。そう考えれば、行為の善性が偶発性に左右される、それどころかまったく判定できない、といった困難は回避できることになります。

このように古典的功利主義を過程功利主義として解した場合、倫理性の物差しは、結果ではなく過程・プロセスにあることになり、この点においてカント倫理学と一致することになります。

カント
カント

倫理性は意志という過程・プロセスのうちにあり!

カント倫理学との近似性はそれだけに留まりません。非利己的な行為を倫理的善と見なす可能性が出てくるのです。ミルは自身の立場について以下のように述べています。

功利主義倫理は、他人の善のためならば自分の最大の善でも犠牲にする力があることを認めている。犠牲それ自体を善と認めないだけである。(ミル『功利主義論』)

ミルの立場は決して利己主義などではないのです。自分が犠牲になることで、多くの人が幸福を得られるのであれば、彼はそうすべきことを説いているのです。そこでなされた行為は非利己的であり、そして、倫理的善であることになります。

もちろん、手続き的にも、倫理的善の中身としても、カントの立場とはまったく異なっています。しかしながら、非利己的な行為を推奨し、そこに価値を認めるという点で紛れもなく両者は一致しているのです。

カント
カント

倫理性は非利己的で純粋な善意志のうちにあり!

ミルの『功利主義論』を読んでいると、功利主義には当時すでに無数の批判が存在しており、その反論に多くの紙面が割かれていることが分かります。当時から、あまり快く思われていなかったということが伝わってきます。しかし、過程功利主義として解せば、古典的功利主義はずっと受け入れやすくなると思うのですが、いかがでしょうか?

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