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続・みんながそれをやったらどうなる?

奴隷カント倫理学

カントは私たちに普遍化の思考実験によって、ある行為原理を自分だけが順守するのではなく、みんなが順守した世界について想像してみることを求めます。それが道徳法則に合致する行為、ならびに、道徳法則に反する行為を導く試金石となるのです。

私はその際に、自分の置かれた状況や、それを踏まえた上で自身の考え方といった、実質的な側面も考慮に入れるべきだと思うのですが、多くのカント倫理学研究者はそういった実質的な側面を完全にそぎ落として、純粋で形式的な手続きのみ・・から、規範を導くことができることを説くのです。

しかし本当にそんなことできるのでしょうか?

オニール説

オノラ・オニール

カント倫理学研究の重鎮であるオノラ・オニールは普遍化の思考実験について以下のように説明します。「私は奴隷になる」という行為原理が普遍化されると、みんなが奴隷であることになります。しかし、みんなが奴隷である世界では、奴隷を所有する人は存在しないはずです。つまり、先の行為原理は普遍化が不可能なのです。このような思考実験によって、順守すべきでない行為原理が明らかになるのです。

どうでしょう、みなさんこのような説明に納得できるでしょうか?

もし「納得できる」という人がいれば、その人は以下の説明についてはどう思われるでしょうか。

「私は看守になる」という行為原理が普遍化されると、みんなが看守であることになります。しかし、みんなが看守であるということは、受刑者は存在しないことになります。受刑者が存在しえないのに看守が存在する事態というのは不合理です。つまり、この行為原理も普遍化が不可能であり、倫理的に許容されないのです。

しかし、看守になることが倫理的に許されないことであるという帰結を受け入れる人はいないと思います。実質的側面を等閑視して、純粋で形式的な側面のみを問うと、命題の中身によっては、このような常識的倫理観に反する帰結を招いてしまうのです。

小倉説

似たような例をもうひとつ紹介したいと思います。故・小倉貞秀は、普遍化の思考実験について以下のように説明しています。

「私は列に割り込む」という行為原理が普遍化された場合について考えてみると、みんなが列に割り込もうとすることになります。しかし、みんなが列に割り込もうとする世界では、もはや列など存在しないはずです。そこでは「私は列に割り込む」という行為原理は順守不可能となります。このような、普遍化によって順守が不可能となるような行為原理に則るべきではないのです。

どうでしょう、みなさんこの説明に納得できますか?

そもそも、みんなが割り込みをする世界では、本当に列は存在しなくなるのでしょうか。私は疑わしいと思っています。依然として列は存在するものの、単に力の強い者が前に来るようになるだけなのではないでしょうか。

私自身は万人が割り込みする世界が到来しても、列は存在し続けると思いますが、どのような行為原理が普遍化された際に論理的不整合をもたらすかということは、実はよく分からないのです。

この話に関連して、私がよく学生に問うのは、「私は授業中に一番前の席に座る」という行為原理の普遍化可能性についてです。

生徒の答えは分かれます。真っ先に「みんなが一番前に座ることなど不可能」と反応する人たちがいます。すると「いやいや、ちょっと待て、横一列になることによって可能だ」と言う人が出てきます。今度は「横一列を指して「一番前」と称するのは無理がある」という異論が挙がります。するとそれを受けて、「一番前であり、かつ、一番後ろでもあるのであり、そこに何ら論理的な矛盾はない!」という再反論の声が挙がる、といった調子でやり取りがなされるのです。

議論自体はおもしろいかもしれませんが、やり取りしていると、そのうち頭の中に、「いったいこの議論に何の意味があるんだ?」「倫理に関係ないんじゃないか?」といった疑念が浮かんでくるのです。もっともな疑問で、「私は授業中一番前に座る」という行為原理が必ず倫理に関わる、ましてや、例外なく倫理的悪であるなどとは思えないでしょう。

その他の説

ここまでに紹介した奴隷になる行為原理や、列に割り込む行為原理以外にも、カンニングの行為原理や、約束を破る行為原理などが例として挙げられて、説明されることがありますが、困難の所在は同じところにあります。

私には、彼らが本当に「普遍化によって論理的不整合が生じる」→「その行為原理は採用してはいけないことが分かる」という手続きを経ているとはどうしても思えないのです。そうではなく、倫理的に許容しがたく、かつ、普遍化された場合に不都合が生じるように見える行為原理を探し出して・・・・・、「ほら説明つくでしょ!」と言っているようにしか見えないのです。

私の立場

最後に私の立場について明確にしておくと、前回の記事においても明言しましたが、私は純粋で形式的な手続きのみから具体的行為の禁止を導くことなどできないと考えています。それはあくまで、自分が置かれた状況という実質的(経験的)要素を踏まえた上で、普遍化された世界が万人に欲せられる(望まれる)ものであるか吟味することによって導かれるのです。

それはカント自身によって以下のように定式化されています。

汝が、それが普遍的法則となることを欲するような行為原理に従ってのみ行為せよ。(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』)

ある行為原理が普遍化された世界を思い浮かべてみて、それが万人に欲せられるものであれば、それは道徳法則に適うのであり、反対に、それが欲せられないものであれば、それは道徳法則に反するのです。

重要な点は、人によって道徳判断(何が道徳法則に合致するか、または、何が道徳法則に反するかという判断)が異なるという事実なのです。規範というのは純粋数学や論理学のように万人に当てはまる正解・不正解があるようなものではなく、その判断は各人の選択意志に委ねられているのです(一般的には、完全義務にその余地はないと説明されることが多いですが、私はその立場を取りません)。
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