世の中には「よい」と言われるものがさまざま存在します。カントはそのうちのいくつかを列挙しています。表にすると以下のようになります。
道徳性 | 善意志(のみ) |
才能・能力 | 例、理解力、機知、判断力 |
気質・性格 | 例、勇気、果断、根気 |
幸福の要素 | 例、権力、富、名誉、健康、安泰、満足 |
今回の記事では、これらをひとつひとつの役割り、並びに、関係性について見ていきたいと思います。
才能・能力
倫理学にとって核となる道徳性は後回しにして、まずは外堀から埋めていくことにします。
カント自身がこの「才能・能力」と、次に挙げられている「気質・性格」については、「自然の要素」としています。つまり、自然と生まれつき備わっている要素ということです。
他方でアリストテレスは、生得的な能力について語っている箇所もありますが、そのすぐ後で、才能や能力があっても正しい方向に使わなければむしろ害悪が大きくなってしまうこと、そして、正しい方向に発揮するためには後天的である知性が必要であることについて述べているので、むしろ力点は後天的な才能や能力の方にあるように思えます。
そのことは、アリストテレスが挙げる二通りのアレテー「知性的アレテー」と「習慣的アレテー」がどちらも後天的なものであることからも窺えます。アリストテレス自身、前者は大部分が教示によって、後者は経験(習慣づけ)によって可能であることを述べています。
才能や能力には先天的に備わっているものがある一方で、後天先に伸ばせる部分があることも確かであり、両方の要素があると言えるでしょう。
気質・性格
次に「気質・性格」における良さですが、先ほども触れたように、カントはこちらも「自然の要素」としてます。ただデーター・シェーネッカーも指摘しているように、カント自身が後年、性格の変化について言及していることからも、こちらも生得的な面と後天的な面があると考えるべきだと思います。
これはアリストテレスが中庸の名で呼ぶものに近いと言えるかもしれません。アリストテレスは勇気を例に、臆病でも無鉄砲でもなく、その中間にある勇気が中庸であると述べています。
ただカントとの違いは、カントが「才能・能力」と「気質・性格」を同列に扱っている一方で、アリストテレスの場合は中庸は習慣的徳に含まれる形で描いている点です。確かに、いくら才能や能力があってもそれを発揮する勇気がなければ行使できないので、それらを結びつけるというのは構造的には十分頷けます。
幸福の要素
カントは、「自然の要素」である「才能・能力」と「気質・性格」に対比する形で、「幸福の要素」を挙げています。ドイツ語ではGlücksgabenですが、今日この言葉を耳にすることはありません(つまりもはや死語となっている)。ただこの語の成り立ちを分析してみると、Glückは幸福のこと、gabenとは与えるを意味する動詞のgebenが名詞化したものとなっています。つまり直訳すると「幸福を与えるもの」ということになります。
確かにカントの挙げる、権力、富、名誉、健康、安泰、満足といったものは、自身の幸福に寄与するでしょう。こちらも生得的なもののみならず、後天的に得られるものもあると言えます。
道徳性
では、最後に残った道徳性です。それについてカントは以下のように述べています。
この世界において、それどころかこの世界の外においてさえ、無制限に善と見なされるのは、まったく善意志のみである。(カント『基礎づけ』)
道徳性とは善意志に他ならないことが語られています。善意志とは非利己的で純粋な意志のことです。これが単なる善ではなく、無制限に善であると言うのです。この無制限とはいかなることなのでしょうか。
無制限の意味
カントは「自然の要素」は使い方を間違えると、悪しき(böse)こと、害悪(schädlich)に結びつくことを指摘しています(ただし、これは結果が悪、害悪に結びつくということではありません。後ほど触れますが、善意志から行為しても結果が悪であり、害悪を伴うこともあるためです)。
他方の「幸福の要素」については、人を傲慢にすることがあると言われています。確かに私たちは中途半端に成功してしまったことにより勘違いしてしまい、則を超えてしまう人(例えば、上から目線になり、人を見下すような態度をとってしまう等)の姿を目にすることがあります。
先ほどの問い、つまり、なぜ善意志のみが無制限に善いのかという問いですが、それはそれ単体で善性を有するためです。他方のそれ以外の良きものは意志が善いものであって、はじめて望ましい方向に発揮されるためです。
結果の良し悪し
カントの説く、善意志の大きな特徴は、それは「やろう」と意志さえすれば、必ずできる点にあります。他方で、「才能・能力」として挙げられているものはそれを身に着けようとしたからといって、必ずできるわけではありません。それに関連してカントは以下のように述べています。
とりわけ運が悪く、あるいは自然が〔意地の悪い〕継母のようにごくわずかな天分しか与えなかったために、この〔善〕意志には、その意図するものを実現するための能力がまったく欠けていたとしても、さらにこの意志ができるだけ努力したにもかかわらず、何も実現できなかったとしても、あるいはこの意志が単なる願望のよなものではなく、私たちが利用できるすべての手段を尽くしたにもかかわらず、何も実現されずに、ただ善い意志だけが残っているような場合でも、善意志はあたかも宝石のように、そのすべての価値を自らのうちに有するものとして、燦然と輝くのである。(カント『基礎づけ』)
運悪く、才能や能力を欠いているようであれば、望ましい結果を残すことも難しいことになります。しかし、たとえ望ましい結果どころか、望ましくない結果がもたらされたとしても、行為者が善意志から行為したのであれば、そこに道徳的善性が認められるのです。カント倫理学は結果論を排除するのです。
つまり、条件が悪ければ、さまざまな良さが実現困難になるものの、そんな人にも必ず意志を行使する力は備わっているはずであり、そのため道徳的善はなすことができるはずであることが説かれているのです。私はこの「善への扉は万人に開かれている」という点に魅力を感じるのです。
さいごに
カントがさまざまなよきものを区別し、個別に評価すべきことを説いている点については、私個人的にはもっと広く知ってもらいたいと思っています。というのも、本来区別すべきものをそうせずに、誤った評価をする姿が頻繁に目につくためです。
例えば、「結果良ければすべて良し」といった表現をよく耳にします。しかし、結果の良さには結果の良さしかないわけで、そこに至るプロセスまで良いものであったことは本来意味しないはずなのです。
その何が問題であるかというと、正当で正確な評価が下せなくなってしまうのです。実際にはプロセスは良かったのに結果が悪い方に出てしまうこともあれば、プロセスはずさんであったのに結果が伴ってしまうこともあります。前者は全否定、後者は全肯定では、正当で正確な評価とは言えません。
それに関連して、実際には良くなかった点、改善すべき点があったはずなのに、それがそのまま等閑にされてしまうことになります。するとプロセスのうちに内在する悪性は次第に膨張していき、歯止めがきかなくなり、いつしか取り返しのつかない形で表面化するのです。
結果にすべてを委ねるような中身のない、哲学のない姿勢は、必ず行き詰まると私は思っています。