人間は自分が信じたいものを信じようとする悪い傾向がある

Do you really believe in that informationカント倫理学

今回もカント倫理学をロシアによるウクライナ侵攻と絡めて記事を書くことにします。とりわけ「愛」という概念に焦点を当てて考察していきます。

カントにおける「愛」とは

カントは「愛」というものを大きく二種類に分けます。ひとつは傾向性という自らの感情に起因する、受動的であり、道徳的価値を持ちえない愛であり、もうひとつは理性に起因する、能動的で、道徳的価値を持ちうる愛です。カント自身は以下のように表現しています。

傾向性からの愛は命じられない。しかしながら、義務にもとづく慈善自体は、まったく傾向性がその動機となっておらず、また自然的な制御不能な嫌悪の念がそれに対抗する限り、実践的な愛であり、受動的な愛ではない。(カント『基礎づけ』)

カントは自ら好き好んでやった行為に道徳的価値を見出しません。それが道徳的義務であることを自覚し、それを理由として行為した際に道徳的輝きを認めるのです。だとすれば、傾向性からの愛が道徳的に命じられないことは必然的な帰結と言えます。

感情的な愛

しかしここで「愛とはすばらしいものじゃないか」と異論を唱える人がいるかもしれません。では、好きだからという理由で相手を付け回したり、監禁したり、最悪殺してしまうような行為もすばらしいのでしょうか。そうはならないはずです。理性を欠き、感情的な愛からのみ行動してしまうことはその実、非常に危険なことなのです。

カントは感情としての愛について以下のようなことも述べています。

惚れ込んでいる者は、愛する相手の欠陥に対しても不可避的に盲目となる。(カント『人間学』)

ここで指摘されているのは相手の欠陥が見えなくなってしまうことですが、その点に限らず、感情的な愛からに縛られることは事象を正確に把握すること、そして冷静な判断を下すことを困難にしてしまうのです。

理性的な愛

他方で、冒頭に引用したように、カントは実践的な愛をも想定しており、こちらは理性的であり、道徳的義務にすらなりうると考えられているのです。

好意の行為原理(実践的愛)は、好むと好まざるとのかかわらず、「汝の隣人を汝自身の如く愛せよ」という申し分ない倫理的法則に適う、あらゆる人間の相互的義務である。(カント『人倫の形而上学』)

分かりやすく説かれているので、私が取り立てて説明するまでもないと思いますが、カントが望ましいものとして「実践的愛」や「愛の義務」について言及する場合、それは自然に湧いてくる感情とはまったく関係のない、理性的な考慮の末に人に尽くすことが念頭に置かれているのです。

(どれだけ)本当にロシア人は騙されているのか

ここまでは前振りで、ここからが本題です。

ロシアではすでに長いことメディアは真実を伝えることができない状態になっています。政府から独立したメディアは次々と閉鎖されていき、2月4日にとうとう最後のテレビ局が閉鎖させられてしまいました。もはやロシア国内では反プーチンの報道は一切できないのです。

こうなると個人個人が発信するSNSが頼りになりますが、こちらも次々と使用不可になったり、制限がかけられたりしているのです。3月4日にフェイスブックは使用できなくなりました。同じタイミングで、ツイッターも制限がかけられるようになしました。

ロシア国内では反政府的な情報を得ることがどんどんと難しくなっているのです。

だとすると、客観性の高い情報は海外から、しかも電話やメールといった、ひとりひとりのやり取りに限定されてしまうことになります。しかし、どうやらそれもうまくいかないようなのです。どういうことかというと、ロシア国外にいる家族がロシアの検閲がかかっていない情報をロシア国内にいる家族に伝えようとしても、信じてもらえないという事象が頻発しているのです。

侵攻、引き裂かれる人々 「ロシアの親族、信じてくれない」―在日ウクライナ人ら涙のデモ・東京:時事ドットコム
ロシアのウクライナ侵攻から10日目を迎えた5日、東京都内で在日ウクライナ人らが反戦デモを行った。「ロシアにいる親族は誰も『侵攻』を信じてくれない」「友人が軍に招集される」。両国にゆかりのある人々は涙を流し、ウクライナの平和と自由を願った。
Ukrainians Find That Relatives in Russia Don’t Believe It’s a War
Many Ukrainians are encountering a confounding and frustrating backlash from family members in Russia who have bought into the official Kremlin messaging.

肉親なのに信じてもらえない側からすれば、これは相当なショックだと思います(ロシアから物理的、家族から精神的な攻撃を受けていると言えます)。

と同時に、第三者からすると、家族の言葉よりも、大本営発表の方を信じる姿を前にプロパガンダによる刷り込みのすごさを実感させられます。

ただ私はそういった記事や映像を見ていて思ったのです。

彼らロシア人たちは本当にロシアの報道を信じて、海外からの情報をまったく信じていないのか?そこに「信じたくない」という感情はないのか?その「信じたくない」が「信じない」に転化しているのではないか?

ここで話は先ほどの、感情としての愛の話につながってくるのです。これまでロシアにとって都合の良い情報だけしか得てこなかった人々は祖国ロシアを愛してきたはずですし、そんな素晴らしい祖国に暮らす自分たちもきっと大好きなのでしょう。そして大好きなものを否定されれば、感情的には受け入れがたいでしょう。

カントは「先入観」について語っている箇所において、その源泉のひとつに「自己愛または論理的利己主義に起因する先入観」というものを挙げています。これはまさに「〇〇を信じたい」という主観的な願望があり、それが「〇〇は正しいはずである」という先入観につながっていることが説かれているのです。

このような先入観を退けるには、考えること、それも自分の願望や好みといったものを捨象して考えることが求められるのです。「感情によって結論ありきで答え、理性によってその理屈を後付けするようなことはするな」と表現してもよいかと思います。

まとめ

本当に一切の疑念を抱かずにロシアの報道を信じているとすれば、その人に罪はありません。それだけロシアがうまくやっているということになります。しかし、少しでも疑念があるのにもかかわらず、自分の信じたいものを信じるがために思考停止しているとすれば、それは道徳的な悪と言えます。カントの言葉を借りれば「自分自身を煙に巻く不誠実」ということです。つまり、自分で自分を騙しているということです。それは人間の根底に存する根深い悪なのです。

みんなが「どうせ自分ひとりが・・・」と考えていたら、決して社会は変わりません。「たとえ自分ひとりでも!」と考える人たちがいるから、社会は変わっていくのです。

いわば自然は、自由に思考しようとする心的傾向と人間の使命感が広がっていくように、その芽を硬い殻のなかで大切に包んでおいたのであり、その芽はやがて国民の意識にまで広がるのである。この自由が国民の意識に浸透していくと(これによって国民は、行動の自由を次第に発揮できるようになるのであり)、それがやがて統治の原則にすら影響を与えるのである。(カント「啓蒙とは何か」)

いくら独裁国家ロシアと言えども、多くの民衆が不満を抱え声を上げれば、いずれ体制はそれを看過できなくなるはずです。ロシアの人々が自ら考え動き、現状を変えるべく、主体的に動いてくれることを願っています。

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