前回ならびに前々回の記事では、(質的・量的両面において)強すぎる利己性は自分の望みに反し、自分自身にとって不利に働くことになるという話になりました。だとすれば「利己的な感情を抑えることが、結果的に自身自身のためになる」ということになるかと思います。
ここまでは前回の話なのですが、カントの倫理学について多少なりとも知っている人であれば、ここでひとつの疑念が湧いてくるかもしれません。
疑念
先の考え方から「自分のことばかり考えて行動することは自分自身にとって後々不利に働く。だからときおり自分のことは横に置いて他人のことを考えて行動するようにする」という行為原理を設けるとします。ここには他人のために考え動くことが明記されているために、一見したところ利他的に見えるかもしれません。しかし、本当にそれは利他的なのでしょうか。
先の行為原理は「自分自身にとって後々不利に働く」ことを回避するために立てられているのです。それはいわば自分の都合によって設けられた、利己的な原理なのではないでしょうか。
翻ってカントの立場によれば、動機が利己的である限り、そこに道徳的価値を認めません。だとすると、先の行為原理に則って生きる者は、道徳的に褒められることをしているわけではないことになるのではないでしょうか。
この問いに端的に一言で答えると「その通り」ということになります。つまり、そこに道徳的輝きはないことになるのです。
ただ、「だから採用すべきではない」ましてや「道徳的悪」ということではありません。前々回の記事において引用を交えて説明しましたが、利己性のすべてが排斥されるべきものであるわけではなく、問われるのは利己性の程度なのです。
先の原理においては際限なく自分の幸福を追求することが企図されているのではなく、自分が不幸にならないための処世術が述べられていると言えます。その限り、許される範囲の利己性と見なすことができるでしょう。
なぜ自身の幸福を求めることが許されるのか
先ほど私は「許される」という表現を用いましたが、カント自身はもうすこし積極的に、自身が不幸な状態に陥らないように努力することは間接的ながら義務となりうることについて語っています。その理由について彼は以下のように説明しています。
ある点においては、自身の幸福に配慮することは義務たりうる。一部には幸福(これは熟練、健康、富が属する)が、本人が義務を遂行するための手段を含むゆえであり、また、一部には幸福の欠如(例えば、貧困)が彼の義務に反する誘惑を含むゆえである。(カント『実践理性批判』)
自分が不幸であれば、道徳的な事柄に関心を持つことが難しく、また、義務に反してしまうリスクを高めることになってしまうのです。そして必然的帰結として、自らが道徳的善をなすことを困難にしてしまうのです。
先ほどから言及されている行為原理は、自分が不幸を抱え込むことを避けるために立てられた行為原理と言えます。だとすらば、そこには確かに直接義務(道徳的善)は認められないものの、それに資するために間接的な義務を見て取ることができるのです。
さいごに
(よく誤解されるのですが)カントは一挙手一投足において道徳的善をなすこと(非利己的で純粋な善意志から行為すること)を求めているわけではないのです。道徳法則を蔑ろにするのでない限り、自分の好きなように振舞って構わないのです。
私たちは堂々と先の行為原理、つまり、「自分のことばかり考えて行動することは自分自身にとって後々不利に働く。だからときおり自分のことは横に置いて他人のことを考えて行動する」を掲げて構わないのです。
カント倫理学は、しばしば「厳格過ぎる」「禁欲的」などと揶揄されるのですが、実際には多くの状況化において自身の幸福を追求することを認める非常に穏当な倫理学説なのです。