何のために不正を犯すのか?

カント倫理学

前回の記事では、入試においてカンニングしてしまった人の話をしました。入試は人生の大きな分岐点であり、「カンニングしてでも」という考えが頭をよぎる人は少なくないのかもしれません。

しかし実際には、多くの人は思い留まり、行動に移すことはありません。でも、それはなぜなのでしょうか。主に二つの理由が考えられると思います。

ひとつは倫理的な理由です。例えば、カンニングをしてでも試験に合格しようとする姿勢が倫理的に許容しがたいものであることは明らかだと思います。それ自体が不正に歯止めをかけるのです。

もうひとつの理由は、こちらの方が現実的なのかもしれませんが、そのペナルティーの大きさです。大学入試でカンニングを試みて、それがバレたときには、自分の人生にとって大きな汚点となることは容易に想像することができます。

ここでは道徳的悪性と自身が不幸になることのベクトルが一致していますが、これは偶然ではありません。この二つは往々に一致するのです。今回の記事では、なぜそう言えるのかについて考察を加えてみたいと思います。

常習性と大胆性

もし一度試験でカンニングしてうまくいけば、次もカンニングしたくなるでしょう。それがうまくいけば、また次もカンニングしたくなるでしょう。どんどん止めるのが難しくなっていくことになります。

しかもカンニングがバレずにうまくいけばいくほど、次第に手口は大胆になっていくと考えられます。そうなれば当然、露見するリスクは高まることになります。

つまり、カンニングをバレないうちにやめるというのはそれほど簡単なことではないのです。

もしくは仮に、カンニングがバレないまま不正からは足を洗ったとしましょう。しかし、自分は自分がかつてカンニングをして試験に合格したことを分かっているのです。だとすれば「試験」や「入試」といった話題を耳にする度に自分のカンニングのことを思い出すことになるでしょう。それでも何とも思わないとすれば相当のメンタルの強さだと思います。普通の人は一生十字架を背負って生きることになるのではないでしょうか。

 悪意につながる

競争のなかでは、往々に「あいつがいるから自分は勝てない」と考えてしまいがちです。受験の話に絡めれば「あいつ(ら)がいるから自分は合格できない」となってしまうのです。実際に受験の場合は相手がいるから競争になるわけで、相手がいなければ競争にはならないわけです。

試験日に、相手が病気になってくれれば、または相手が失敗してくれれば、自分が合格するう可能性が高まるのです。そういった思いが頭のなかを駆け巡ることもあるかもしれません。しかし、このような感情は不の感情であり、悪意的と言えます。そんな感情を抱えた生き方がよい生き方だと思う人はいないと思います。

他人の目

不正をすればするほど、そして悪意が強ければ強いほど、それを隠し通すことは難しくなります。「あいつ不正をしているのでは?」「あいつの見方って悪意的じゃない?」と気づかれてしまう可能性が高くなってしまうのです。

そもそも、それを隠し通そうとすること自体がものすごく大変なことだと思うのです。そんな大変な思いをするくらいなら、はじめから不正などしない、悪意など持たない方がよいのではないでしょうか。

まとめ

前回の記事においても触れましたが、ある大学に入りたいと決断した時点では、それが自身の幸福に資すると考えていたはずなのです。ところがその者は、人生を左右するような試験でカンニングすることを思い立ったときには、そのような初心は忘れてしまっているのではないでしょうか。

アリストテレス的な、幸福を最高善としておきながら、そのことを忘れて自身が不幸になる可能性が高まる別の目的を掲げてしまっている状態と言えます。帰結は前回の記事と同じで、そうならないためには己の目的が元来何であったのか顧みる他ないのです。

秋元
秋元

次回も関連する話をします。

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