「日本学術会議」が「今に活きる・活かす古典を考える 倫理・道徳教育における古典活用の可能性」というテーマにシンポジウムを開くというので、参加してきました。
問題の所在
参加してみて、いろいろと思うことはありました。全体的な印象として、組織としてもう少し意思統一というか、芯をどこに置くか、はっきりさせた方がいいのではと感じました。もっとも、そのためにシンポジウムを開いているのだと思うので、今後に期待したいところです。
以下では具体的に、どのあたりに私が統一感のなさを感じたのかという話をしたいと思います。
前回のブログに書いたことと重なるのですが、論者ごとに、それどころか、ひとりの論者のなかでさえ、「本音」と「建前」が見え隠れしており、そのためポイントがぼやけてしまっていると感じた瞬間が何度かありました。
大学であろうと高校であろうと、教員の多くが自分が好きだからその分野に携わっているわけです。現にシンポジウムでは、古典に触れる楽しさや喜びを伝える意義を説く意見が多く出ていました。
しかし、すると外(この場合は普段、古典に触れていない人たち)から、「個人の楽しさや喜びのためになぜ(膨大な)税金をつぎ込むのか?」「もっと実用性の高い教科に時間を割り振るべきなのでは?」といった(古典に好意を持っている人たちにとっては手厳しい)意見が出てくるわけです。
このシンポジウムが「今に活きる・活かす古典」に焦点を当てているのも、そういった世間からの逆風があってのことであるはずです。ある登壇者は、何百年も前に活躍した哲学者の言葉であっても、今を生きる私たちが考える上でヒントとなる発想が含まれているという発言をした上で、実際に引用文をもとに、どう論じることができるかについて話をしていました。かなり具体的な内容であり、それ自体は説得力のあるものでした。
このようにシンポジウムでは、古典の楽しさをいかに伝えるかということと、古典を活かす方法論の二つに焦点が当てられ、そこではあたかも二つが調和するかのような、そのことが前提されているかのような論調だったのですが、個人的にはこの二つは両立が難しく、むしろ、それぞれの魅力を食い合ってしまい、かつ、受け手にはポイントがぼやけているように感じさせてしまうと思うのです。
どういうことかというと、楽しさや喜びに惹かれて古典に携わったところで、その営みは生活に活かす方向には普通は働きません。むしろ、「活かせるかどうかなんてどうでもいい、楽しいからやっているんだ」となるのが自然な流れでしょう。つまり、楽しさや喜びという側面を前面に押し出せば押し出すほど、「活かす」という側面は蔑ろにされることになるのです。しかし、そうもいかないので、ときおり「活かす」話が「挿入」される。だから「本音」と「建前」が見え隠れしているように見えてしまうのです。
シンポジウムの第一部は発表と質疑応答で、持論を展開する場ではなかったので私は黙っていましたが、第二部の討論会の場では、私は自分の抱いた違和感と、本来どうあるべきなのかという話をさせていただきました。それはおおむね以下のような内容です。
私が口にしたこと
人が何に楽しさや喜びを感じるのかということは感情であり、主観にかかっています。例えば、『源氏物語』に関心がない人に、その魅力を伝えようとしたところで、分からない人には分からないのです。それどころか、人にはタイプや好みというものがあり、それを無視して押し付けようとすれば、相手はむしろ反発します。一定数の割合で、嫌いになる者が出てくることを厭わない姿勢とさえ言えます。
私はそれよりも、生きていて絶対に避けては通れない問題と絡めた方が有効だと思うのです。例えば、倫理学のなかには、結果に関心を寄せて評価する立場(功利主義)と過程に関心を寄せ評価する立場(義務論)があるが、どちらにより共感するかといった問いを立てることができます。
このような問いを前に、たいていの人は、すべての人に関わる問いであることを自覚してくれます。もし反応がいまいちなら、もっと具体化することもできます。例えば、日常生活において、自分なりにしっかりと考え、努力し、他者や組織のために行動したのに(つまり過程には見るべきところがあるのに)、結果が伴わなかったからといって全否定されたら、何を思でしょうか?納得できるでしょうか?できるとすればなぜできるのか?できないとすればなぜできないのか?そこでどう自分の論を組み立てるか?といったことを問うのです。なんなら、さらにその人にとって切実な問いの形にすることもできますし、そうしてもいいでしょう。
これまで生きてきて同様の経験(つまり結果のみを基準にされ、過程を無視された経験)をしたことがあるという人もいるでしょう。これまではなかったとしても、今後同様の経験をするかもしれません。それが今日か明日かもしれません。家族や友達がこれから経験するかもしれません。その相談をされるかもしれません。そういったことを考えれば、無下にできない問いであることが看取されるはずなのです。
生徒や学生が「自分とは決して無関係ではない問いがそこにはある」と自覚できることが重要なのです。
結語
あるもの(人)が好きであるという感情や、それを追い求めようとする感情は、しばしば当人の目を曇らせます。以下のカントの言葉はそのことを説いていると受け取れます。
それが気質の上で好ましいものであろうとなかろうと、傾向性とは所詮、盲目的であり、奴隷的なものである。『実践理性批判』
私からの提案は、普遍的な意義について問題にしたいのであれば、楽しさ喜びといった主観的な側面は極力そぎ落とすべきということです。同じことを逆側から言うと、客観的な視点から理詰めで勝負すべきということです。
