『いまを生きるカント倫理学』を刊行して以降、本ブログでもそれに関連する記事を書いています。具体的には、読んだ人から実際に投げかけられた、または予想されるであろう批判に答えたり、出版記念イベントで出た質問などについて紹介し、私の立場について説明したりといったことです。
今回もその一環ということになります。
もっとも、このことは今回上梓した本に限ったことではないのですが、私はカントの言葉を理解すること自体を目的としていません。カントが間違ったことを言っている可能性を常に頭に入れ、おかしいと思った箇所については指摘し、よりよい姿を描き出すことを目的にしているためです。
私はカント主義者であるからこそ、カントの思考の枠内に留まっていてはならないと捉えています。今回はその真意について説明したいと思います。
哲学を学ぶとは
カントの有名な言葉に以下のようなものがあります。
哲学(それが歴史的なものでないかぎり)は決して学ぶことができず、理性に関して言えば、ただ哲学することだけが学ばれうるに過ぎない。『純粋理性批判』
「哲学を学ぶこと」と「哲学することを学ぶこと」が区別され、後者だけが私たちに可能であることが語られているということは読み取れます。しかし、この引用文だけでは、何が言いたいのかよく分かりませんね。その前後の文脈を見てみる必要がありそうです。
別にヴォルフ哲学を例にとる必然的理由はないと思いますが、カントはヴォルフ哲学を例に、それに対する完璧な歴史的認識以外に何も持っていなければ、その者は他人の理性に真似て己を形成したに過ぎないことになると述べています。この説明から、先哲の教えを理解することに拘泥することが「哲学を学ぶこと」であって、それは不十分、不首尾に終わることが語られているものと読めます。
また、その対概念である「哲学することを学ぶ」というのは、先哲の教えを理解するに留まらない営みであるということも推測できます。カントは「哲学することを学ぶ」ことについて「理性の普遍的な諸原理を遵守しつつある種の現存する試みで理性の才能を鍛錬すること」とも言い換えています。しかし、これでは抽象的過ぎて(これまた)よく分かりませんね。
哲学することを学ぶとは
カントの学生にボロウスキーという人物がおり、彼はカントの伝記を記しました。そこに、カントが「哲学することを学ぶこと」について語った内容についても書かれており、また、こちらの方が論旨が取りやすいので、ここに紹介します。
彼〔カント〕は学生に向かって、「諸君は私のところで哲学を学ぶのではなく、哲学することを学ぶだろう。単に口真似をするだけの思想ではなく、思考することを学ぶだろう」と絶えず繰り返した。一切の盲従は、彼が心から厭うものであった。『カント その人と生涯』
ボロウスキー自身がカントから「繰り返し聞いた」と語っているので、ある程度の正確性は担保されていると考えていいでしょう。また、先ほどの『純粋理性批判』の内容とも整合性がとれるので、信ぴょう性も認めてよいのではないでしょうか。
引用文には「思考すること」の重要性が説かれています。これまでの文脈に鑑みて、これは他人が言ったことを理解することに拘泥することではなく、それを超えて主体的に考えることが意図されていると解することができるでしょう。
この引用文の後には、生前からすでに偉大な哲学者と見なされていたカントに盲従する者がたくさんおり、カント自身がそれに辟易していたことが記されています。カントの思想を理解することに専念することは、自分の頭で主体的に考えることとまさに真逆のことであり、彼の言葉をむしろ蔑ろにする行為と言えるのではないでしょうか。
さいごに
なぜ今回このテーマについて書いたかというと、私の本を読んだ人のなかには、「私はカントを理解したいのだ」「お前の立場を知りたいのではなくカントの立場について知りたいのだ」といったことを言う人がいるからです。しかし、自身の主体的な立場であり、生き方から乖離してカントを描き出すことなど私にはできませんし、そんなことすべきでないと私は確信するのです。カントに忠実であればあるほど、そうならざるをえないはずなのです。
というか、このことはカントに限ったことではないと思うのです。もし他人の言ったことを真に受け、それをそのままオウム返しすることが哲学や倫理学であるなどと考えている人がいれば、自分の姿勢について見つめ直すことをお強くお勧めします。