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続・教育現場の抱えるジレンマ | カントに学ぶ意志の倫理学

続・教育現場の抱えるジレンマ

教育現場のジレンマカント倫理学

カントは子供が自律できるように促すことの重要性を説きます。自律とは自分で分をするということであり、それは内的な(自分のなかで完結する)強制に他なりません。他方で、教育とは元来、(親や教師による)外的な強制によるものです。ここに、外的な強制である教育現場において、どのように内的強制のための力を陶冶することができるかという問いが生じるのです。

カント自身、それが重大な問題であることを認識していました。

教育の最大の問題のひとつは、外的強制に服従することと、自分の自由を使用する〔内的強制の〕能力とを、どのようにして結合できるかということである。(カント『教育学』)

それに関連して、前回の記事の最後に、教育現場において(体罰と見なされる可能性がある)力による苦痛の伴う外的強制が許容されうるかという問いを立てました。

この問いに答えるために、そもそも他人による強制を排除して、教育が成り立つのかということについて考えてみたいと思います。

これが非常に困難であることは容易に推測することができると思います。自分で考え、決断し、それに則って振舞うという自律的な行動は高度に理性的な営みと言えます。特に小さな子供にとっては過大な要求なのではないでしょうか。例えば、四歳の息子の駄々をこねてバタバタと暴れることがあります。もう自分でも自分をコントロールできなくなってしまっているのです。自律どころではありません。もうそうなってしまったら(押さえつけていれば、見た目には体罰を加えているように見えるかもしれませんが)物理的強制を行使して対処する他ないのではないでしょうか・・・。

自律の必要性を説くカント自身ですら、外的強制を一切欠いて教育が成り立つとは考えていません。カントは以下のように述べています。

子供は自分が正しいと認める行為原理に従って行為するようにならなくてはいけない。しかし、これは小さな子供には実現困難であり、したがって、また、道徳的陶冶は両親や教師の側の最大の見識を必要とするということは容易に分かることである。(カント『教育学』)

小さな子供でも誰からの助力もなしに自律が可能であるならば、そもそも道徳教育は必要ありません。それができないから、教育という他人(親や教師)による外的な強制が必要となるのです。つまり、私たち人間は、他人による強制を通じて、自分自身を強制する(すなわち自律の)姿勢を身につける他ないのです。

では、「他人による強制を通じて、自分自身を強制する」というは、具体的にどのような姿が思い描かれているのでしょうか。それは、おぼろげながらですが、以下の文面に現れています。

教育の場合に、その全基盤となるのは、あらゆる事柄に関して大人の側が正しい原則を確立して、子供がそれを理解して、承認できるように導くことである。(カント『教育学』)

大人が原則を立てるのですが、それを理屈抜きに押し付けるのではなく、子供が理解し、承認できるように促すことが求められるのです。そのためには、例えば、大人はかみ砕いて分かりやすく説明したり、子供に考えさせたり、意見を聞いたりするといった方法をとる必要があります。ここには他者による強制が働いています。ただ他者による強制自体が悪いわけではなく、そこに留まってしまうことが問題なのです。

もし子供が大人の言い分を理解し、承認することができれば、彼らはそれを主体的に行動に移すことができるはずです。つまり、それが自律的な営みにつながるのです。

以上、ここまで説明してきた内容は、カントによる以下の一文に集約されています。

教育とは強制的でなければならないが、しかし、そうであるからといって奴隷的であってはならないのである。(カント『教育学』)

何らかの規範を外的強制によって無理やり押し付けた場合、その場では子供はその規範に従うかもしれません。しかし、それが有効なのは、(子供が納得できない限りは)その規範を押し付けた人の目が届く範囲に留まることになります。つまり、そこには、空間的、時間的制約が伴うことになります。それが他律の限界なのです。

先生が見てないからいいや

他方で、ある規範が他者によって与えられたものであったとしても、子供がその意味について納得した上で、主体的に動いているのであれば、それは自律に他なりません。その規範は、空間・時間に関係なく強くその人を縛ることになるのです。

人が見ているかどうかなんて関係ない。

自分が正しいと思っているからやるんだ!

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