休止状態だった理由
私はこのブログをしばらく放置していました。今見直したら四年以上です。放置していた理由は主に以下の二つです。
(一)単純に忙しかったから。
(二)最初の理由に関係して、執筆の依頼が入るようになったためです。言いたいことは多くの人の目に触れる出版物に載せればいいと思うようになったから。
再開理由
ではなぜ今、私がまたブログを書いているのかということですが、その理由は主に以下の三つです。
(一)執筆の依頼が入るようになったといっても、当たり前のことですが、それは私が書いたものを手に取った人にしか届きません。また私が出演しているYouTube動画がいくつかありますが、同じ理屈で、やはりクリックした人にしか届きません。もちろんこのブログ記事だってクリックした人にしか届きません。ただ、私が発している言葉に辿り着く可能性を少しでも広げておくことにはやはり意義があるのではないかと思うようになったのです。
(二)依頼されて文章を書く場合、字数や書ける内容に制限がかかります。動画も自分でチャンネルを持って運営しているのであれば別ですが、基本的に私はゲストという形で出演するので、こちらも好き勝手話せるわけでもありませんし、公開されている動画は、あちこち編集、カットされています。つまり、第三者の手が入らずに、自分の伝えたいことを伝えられる媒体というのは実はあまりなく、そのためやはり存在意義があるのではないかと思い直したのです。
(三)私はさまざまな媒体で自分の立場について語ってきたつもりでしたが、実際にはまだまだ世間に知られていない、伝わっていないと感じることがあるためです。
今回のテーマ、人文学擁護論に向けて
その一例であり、私はここで取り上げたいのは、人文学の有用性についての議論です。私の立場は明確で、人文学に限らず、学問というのは、その性質上有用性とは切り離せないものであり、その理論を評価する上で重要なファクターになるはずだと考えます。ひとつ例を挙げるならば、私の専門分野である倫理学の場合、「善とは何か?」「いかに生きるべきか?」といった問いに対峙し、方向性を示すことが使命となります。生き方について云々しておきながら、「イヤ、理論と実践は別」「だから生きる上では何の役にも立たない」などと主張することの方が不自然で、無理があります(真顔でその無理筋を通そうとする人たちがいるから問題提起しているのです)。
私は自らの立場については、自著『いまを生きるカント倫理学』の「おわりに」や、YouTube番組「ゆる哲学ラジオ」において示したつもりだったのですが、世間を見ていると、私の思いが伝わっていないことを痛感するのです。
言い方を変えれば、私は私の主張を読んでもらえさえすれば、納得してもらえるはずという思いがあります。ただ私はXではこのテーマについての発言は控えてきました。自らの論を組み立て、それを発表するには不向きな媒体であるためです。他方で、X上には、(私とは立場を異にし)人文学が有用性を求めないものであると主張する人たちの論で溢れています。
彼らとて、人文系の有用性に対する疑念の声と人文系の側からの反論という一連のやり取りを何度も何度も目にしているはずです。つい最近もXのトレンドに上がっていました。このことはこれまで、人文系の人たちは言葉を並べてきたものの、懐疑的な人たちを納得させられていないことを意味しているのです。その事実を真摯に受け止め、自らの態度を反省的に見直すべきなのではないでしょうか。
人文学擁護論のダメさの原因
人文系を擁護する人たちが、懐疑的な人たちを納得させられない理由は、私に言わせれば、はっきりしています。それは彼らの態度が不誠実だからです。「不誠実」というのは、本心を語っていないという意味です。
それは彼らの言い分を聞けば明らかです。端的に言って、主張に無理があるのです。それは発言者の能力が劣るとか、思考力が欠けているといったことではないと思うのです。そうではなく結論ありきで、その結論に合うように理屈を後付けをしている、だから無理が生じるのです。あまりにも言っていることが苦しく、そうとしか思えないレベルなのです。
人文学擁護論のダメさ加減
ここでは、人文学の有用性の疑義に対して人文学を擁護しようとする人たちが、どれほど無理筋な理屈を並べているのか見ていきたいと思います。私は大きく三つのグループに分けられると思います。
(一)問いに答えない、すり替える
これにもいくつかのパターンがあります。例えば、「問い自体がバカバカしい」と述べて、まったく取り合わない姿勢です。これは、人文学の存在意義を自ら否定していると言えます。どんなバカバカしい問いであっても、その問いの内容が人文学の範疇にあるものであれば、真剣に対峙すべきであり、なぜバカバカしいのかについて根拠を挙げて説明すべきなのではないでしょうか。
上に似た反応で「どうせあなたには分からない」というものがあります。これも当事者としての説明義務を怠っています。聞いている者の多くは「ああ、答えられないんだな」「なのにそれを誤魔化そうとしている」と受け取るでしょう。
これらとは趣が多少異なり、少し捻った答えは、「問いの立て方が間違っている」といったものです。それも例えば「誰にとってか」とか「役に立つ」といった点が明確でないままでは答えられない、という趣旨であれば理解できます。だったら、ひとつひとつの語の定義を明確にすればいいのです。それをするわけでもなく、気に食わないという問いの形を適切な形に変えるわけでもなく、ただ問いから距離を置くだけなのであれば、私はその者は問いに答える気がそもそもないのだと受け止めます。
(二)我々は何らの価値も前提しない
この種の主張もよく目にします。私は何らの価値も無条件に前提すべきでないという点には賛同します。しかし、それは思考段階の話であって、結論の話ではないはずです(それが帰結であれば、懐疑論になってしまいます)。
もし結論として、私は何らの有用性にも価値を置かないということであるならば、第一にその主張の拠り所となる根拠を示せなければなりません。第二に実生活において有用な側を選択することに言行不一致が生じます。人文系は理論(言っていることと)と実践(やっていること)の乖離している人が多い(私が念頭に置いているのはインテリ左派)ものだから世の中から軽視されるのです。
(三)役に立つかどうかは分からない
自らの研究が本当に役に立つかどうかなど分からないというのは事実でしょう。しかし、だからといって役に立つ意図を持つ必要はないという帰結は導けないはずです(話が飛躍している)。実際に役に立つかどうかは偶発性が絡んでくるために本人にも分からないというのはそのとおりです。他方で、自分が世の中の役に立つ意図を持っているかどうかは本人には確実に分かるはずです。結果は分からないなどと言って逃げるのではなく、自分に世の中に寄与する意図があるのかどうかは自分で分かるはずであり、私はそこを答えてほしいのです。
なぜ本心を語りたがらない
人文学は世の中の役に立たなくてよいと主張する人たちは、なぜその役に立たないものに人生の貴重な時間と労力を費やしているのでしょうか。おそらく「好きだから」「関心があるから」といった理由でしょう。人によっては少し言い方を変えて、「(性格上or性癖から)やめられない」「社会に出るのがイヤだから」「研究者になりたかったから」などと言うかもしれません。どれも本質は一緒です。個人的な都合です。おそらく端から個人を越えたところにある有用性に関心がないのでしょう。だったら、そのことを素直に認めるべきなのです。
ところが、彼らの多くはそこを認めようとしない、認めようとしないというか、それ以前の段階で、避けようとするのです。それはなぜか。私が思いつく主な理由は以下の二つです。
(一)自分の行動原理の根が感情であることを認めたくない。または同じことですが、自分の行動原理が理性であり、それに発する理論に裏打ちされているわけではないことを認めたくないからです。
(二)もうひとつは実利的な理由です。昨今は人文学に限らず、ポストや研究費が削られる方向にあります。そこで「私が好きだから」「私は興味があるから」では、その流れを止められないわけです。だから、理屈を後付けして、なんとか正当化しようとするのです。
人文系の有用性について疑念の声が上がると、連中はしばしば、「真理を探究するためにやっている」とか「人類の進歩に寄与するため」などと、とてもじゃないけれど本心を語っているとは思えない、歯の浮くような言葉を並べるのです。しかし、そんな言葉を聞かされた方は、不誠実さを感じとるのです。
まとめ
私の言いたいことを一言で表すと、「誠実に答えろ!」です。個人的な都合で動いているのか、それとも、世の中に寄与することを志向しているのか、自分の内面のあり方を誤魔化さないで示してほしいのです(その両方が動因であるという可能性もあるが、その場合は、不誠実な態度をとる必要はなく、世の中にどのように貢献するつもりなのか示すことができるはず)。不誠実な態度は、自分(たち)の立場を悪くするだけです。
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