前回の記事では、カント倫理学のどこに私が惹かれるのかということについて書きました。それは、倫理的価値を動機、具体的には意志のうちに認める点でした。
それに関連して今回は(何をすべきか分かっていることを前提として)倫理的善は「やろう」と意志さえすれば、確実になすことができる(仕損ねることはない)という点について論じたいと思います。
このような言い方から察しがつくと思いますが、他の倫理学説ではそうではありません。必ず偶発性が絡んでくることになります。
まずアリストテレスが徳と見なす卓越性について述べれば、それは後天的に伸ばせる面もありますが、生まれ持った素質という面もあります。向き・不向きといったものです。自分が何に向いており、反対に何に向いていないかといったことはまったくの偶然によって決まるのです。また、卓越性とは磨こうと努めたからといって常に磨かれるわけではありません。うまくいくときもあれば、うまくいかないときもある。その点でも偶発性を排除することはできないことになります。
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卓越性を磨くつもりだったのですが、うまくいきませんでした。
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君は徳に劣る!
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ヒー
卓越性を有していればいるほど望ましい結果が得られる可能性が高まるでしょうが、その関係も必然ではありません。いくら卓越性があっても、うまくいかないことがあります。反対に、卓越性において欠くのに、たまたま良い結果がもたらされるということもまた十分に考えられます。どのような結果がもたらされるかという問いについて偶発性を排除することはできないのです。
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みんなに喜んでもらおうと思ってやったのですが、うまくいきませんでした。逆に迷惑をかけてしまいました。
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君は苦痛をまき散らしたのだから、倫理的に悪である!
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ガーン!
他方でカントは、少なくとも倫理性に関して言えば、意志さえ善いものであれば、それで十分であると考えます。その点に関連して、カントは以下のようなことを述べています。
善い意志は、それが実現し、あるいは達成するものによって、また、それが何かある掲げられた目的に役立つことによって善いのではなく、ただそれを意欲することによってのみ、すなわち、それ自身において善いのである。(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』)
カントは倫理的善が有用性や結果とは無関係に、それ自体で価値があることを説いているのです。
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卓説性は磨かれなかったし、みんなに迷惑をかけてしまいました。
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君のうちに善いことをしようとする意志さえあったのであれば、私はその点を評価するよ。
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うう…(涙)
この善意志を行使するのに、一部の人のみが有しているような能力や運といったものは必要ないのです。それは本人が「やろう」と意志さえすれば必ず実現できるものなのです。
カントは当為(すべきこと)と可能(できること)の関係について以下のように述べています。
人はあることをなすべきであると自覚するがゆえに、それをなしうると判断し、自らのうちに自由を認識する。(カント『実践理性批判』)
カントに言わせれば、何が倫理的に正しいことなのか分かってさえいれば、必ずそれ(つまり、倫理的善)をなすことができるのです。このカント倫理学における倫理的善の内的確実性のうちに私は魅力を感じるのです。