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息子に伝えたいこと | カントに学ぶ意志の倫理学

息子に伝えたいこと

私の関心カント倫理学

四歳の息子が「どうしてパパはぼくに『なぜそれをしたのか?』とばかり聞いてくるの?」と尋ねてきました。私は「『分からないとか』『なんとなく』ではなく、ちゃんとした理由を持って行動することが大切だからだよ」というようなことを言いました。

私としては息子に自分の行動の根拠について、しっかりと考えて、答えられるようになってほしいのです。ただ、こちらが納得できる論拠を息子が示せるかどうかという点は二の次でよいと考えています。私が納得できるかどうかという点まで求めてしまうと(まさに前回の記事において退けた)相手を納得させることができるかどうかという能力の有無や程度、ならびに、うまくいくかどうかという結果などの偶発的要素が絡んできてしまうからです。しっかりと考えた痕跡が見られればそれでよい、または、努力した形跡が見られればそれでよいと思っています。

ちなみにカントは、倫理的義務というのは、何かを達成することではなく、何かに向かって努力することであることを説いています。

努力することは義務であるが、(この人生において)その努力した先の事柄を達成することは義務たりえない〔後略〕。(カント『人倫の形而上学』)

前回の記事において、当為は可能を含意することについて述べました。ここで言われていることと重なり合うことになります。つまり「できるかどうか」という側面には才能やら運やらといった偶発的要素が絡んできます。しかし、努力の有無にそういった偶発的な要素はまったく関係ないのです。そして、後者のみが倫理的な試金石として問われるのです。

私は、仮に息子の試みが実を結ばなかったとしても、そこに自分の頭でしっかりと考え、努力をした形跡が見られれば、その点を褒めてあげるようにしています。

反対に、息子の考えがしっかりしてなくても、十分に努力しなくとも、(たまたま)結果が良い方向に出てしまうようなこともあります。その際、結果が良かったからといって、それ以外の点に目を向けない、または肯定してしまうようなことは絶対にしてはいけないと思っています。

「結果よければすべてよし」「結果がすべて」といった姿勢では、過程(例えば、考え方、努力、動機など)に本来、改善すべき点があっても、改善されないままとなり、それが将来、子供にとっての躓きの石となる可能性があるからです。そして、なにより言明の内容として間違っているためです。

四歳になったばかりの息子には、私の意図や真意など分からないかもしれません(分からないと思います)。でもいつか必ず思い返す日がくるはずであり、そのときに「ああ、父親は信念を持って、ああいう言い方をしてたんだ」と気づいてくれればそれでいいと思っています。

私自身に、まさにそういった(つまり、ずっと後になって父親の言っていた意味が分かったという)経験がありました。それについては出版予定の著作『意志の倫理学――カントに学ぶ善への勇気――』の冒頭に記されているので、関心がある方はぜひご参照ください。

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