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差別が繰り返される理由 | カントに学ぶ意志の倫理学

なぜ同じ過ちが繰り返されるのか

Black Lives Matterカント倫理学

ここのところ、ジョージ・フロイドの死を受けて、数回にわたって「差別」についての記事を書いてきました。そんななか、つい数日前(8月23日)にまたアメリカで同じような事件が起こりました。無抵抗の黒人に対して白人警官が背後から発砲したのです。その事件をきっかけに、MLBやNBAやテニスの試合などがボイコットや中止となる影響が出ています。

他人を軽視することとは

ここには黒人に対する軽視があることは間違いありません。カントは他人を軽視することについて以下のように述べています。

他人を軽蔑すること(contemnere)、すなわち人間一般に当然払うべき尊敬を他人に対して拒むということは、彼らが人間である限り、いずれにしても義務に背いている。彼らを他の人々と比較して、心の中で軽視すること(despicatui habere)は、確かに往々にして避けがたいことであるが、しかし、その軽視を露骨に表に現すことは、はやり侮辱である。(カント『人倫の形而上学』)

ここでカントは、心のなかで軽視することと、軽視を露骨に現すことを明確に区別し、前者は避けがたいこととして許容し、後者のみを侮辱であり避けるべきこととしているのです。

どういうことかというと、他人に対して自分がどのような感情を抱くかということは自分でコントロールすることができません。例えば、黒人を見て「ゴリラみたい」と感じることがあるかもしれません。しかし、それは自然な感情であり、「今後はやめよう」と試みたところで、実際にはやめるわけではありません。別に黒人でなくても、日本人でもゴリラに似ている人はいますし、そういった人を見れば、やはり「ゴリラに似ている」と感じるでしょう。自分の力ではどうにもならないことであり、仕方ないことなのです。当然、差別でも、非難されることでもありません。

他方で、感情を公にするかどうかということは、理性に属することであり、自分でコントロールすることができます。他人を軽視した感情を、公にするということは普遍化の思考実験に照らし合わせて、許容されるとは思えません。もし反法則的な行為原理を採用するようであれば、それは義務違反となります。それは倫理的悪であり、差別であり、慎むべきことなのです。

カント倫理学の建てつけから言えば、必然的帰結と言えます。カントに言わせれば、倫理的善も悪も、自分ではコントールすることのできない感情のうちにではなく、自分でコントロールすることのできる意志のうちにのみ存するのです。

本当にそこでは理性が働いているのだろうか?

しかし、私は疑問に思うのです。

黒人に暴力を振るう白人警官は本当に理性的に、意志によって行為しているのでしょうか?

情動やら興奮などといった感情から動いているだけであり、実際には理性がまともに働いていないという可能性もあるのではないでしょうか。

というのも、差別どうこう以前に、理性的に考えてみれば、黒人であろうが、誰であろうが、無抵抗の人に暴力を振るえば、後で問題となり、自身の責任が追及されることは分かりきったことであるはずだからです。はっきり言って、「なぜそんなアホなことをするの?」という疑問が拭えないのです。

ひょっとすると、すぐに感情的になってしまう(理性で自分をコントロールすることができなくなってしまう)ところに問題があるのかもしれません。そうであるならば、倫理性以前の問題ということになります。あまりに未熟な者が警察になってしまっているということなのかもしれません。

私自身海外に住んでいて、昔は語学学校にも通っていました。そこにはさまざまな国の人たちが集まってきます。そこで各国の警察官の話になったことがあり、彼らの話を聞いて私はショックを受けたのを覚えています。私は警官が市民に賄賂を要求するなどという話は日本では聞いたことがありませんでした。しかし、特に発展途上国の国では、違反をしても金を渡せば警察は見逃してくれるし、それどころか何もしていないのに警察が金をせびりにくるというのです。彼らの話を聞いていて、(この点に関しては)「そんな国に住みたくない」「日本人で良かった」と強く思ったのです。

さいごに

国によってこれだけの差が出てしまう理由はどこにあるのでしょうか。ある国の副総理であれば「民度の違いだ!ガハハ」と言うかもしれませんが、一言では片づけられないさまざまな要因が複合的に絡んでいるのだと思います。私にも答えは分かりません。すみません…

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