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差別はその意図がなくても成り立つ | カントに学ぶ意志の倫理学

差別はその意図がなくても成り立つ

sympathyカント倫理学

引き続き、差別の問題について扱います。まずは前回の記事の内容の確認からはじめたいと思います。

カントは、内心において他人を見下してしまうことがあったとしても、それは仕方のないことだと言います。自分がどのような感情を抱くかということは自分自身ではコントロールすることができないためです。しかし、その感情を公にするかどうかということは、自身でコントロールすることのできる事柄であり、そのため行為主体には責任が生じることになります。

カントの普遍化の思考実験を用いて考えてみたいと思います。「私は他人を軽視する」という行為原理が普遍化された世界を想像してみた場合、それが望ましい世界でないことは明らかだと思います。そのことは、その行為原理が道徳法則に反するものであることを意味するのです。それにもかかわらず、それを行動に移すのであれば、それは倫理的に悖るということになります。

差別の難しいところ

とはいえ、そのようにして、いわば確信犯で差別をしているような人は稀だと思います。多くの人は無自覚的に差別をしてしまっているのではないでしょうか。もしくは「差別」ではなく、「相手を不快にすること」とすればもっと分かりやすいかもしれません。相手を不快にさせる意図を持って発言するような人はあまりいないと思います。しかし、実際には相手を不快にさせてしまうことは誰にでも間々あることと言えるでしょう。同じように、差別もこちらにはその意図がなくとも、そう受け止められてしまうことがあるのです。

そのため私は「自分は差別なんてしない!」といった「自分は違う」「私には関係ない」「私は大丈夫」的な発言をする人こそ、危険であると思っています。誰もが「差別」と受け止められてしまう発言をしてしまう可能性があるのであり、誰もが「自分も差別をしてしまうかもしれない」という危機意識を持つべきなのです。もちろん私自身もそうです。

差別を避けるのに有効なこととは

では、そのような「差別」をしないためには、私たちは何に気をつければよいのでしょうか。私はカントが間接義務のひとつに挙げる、同情心の教化が有効であると思っています。

我々のうちに宿る共苦の自然的(感覚的)感情を涵養し、それを道徳的原則およびそれに即応する感情にもとづく同情への仲立ちとして利用するということは、やはり他人の運命に能動的に共感することであり、それゆえ、結局は間接的な義務なのである。(カント『人倫の形而上学』)

理屈の上では、相手の立場に身を置くことができれば、相手が何を不快と感じ、何を欲しているか察せられるはずなのです。もちろん、完全にはそんなことできません。しかし、それをしようと努めることが重要なのではないでしょうか。

では、具体的には、どのような方法が考えられるのでしょうか。その点についてもカントは示しています。

必要最低限度の物も欠いているような貧しい人々のいる場所を避けて通るようなことはせず、むしろ、そこを訪問すること、また耐え難い苦痛の共感を回避する目的で、病室や罪人を収容している監獄などを見捨てないことなどは〔間接的な〕義務である。(カント『人倫の形而上学』)

貧しい人や、罪人や、病人といった、立場の弱い人と積極的に接することによって、相手の立場についてより共感できるようになり、それが倫理的悪を避けることにつながり、反対に、倫理的善へのきっかけとなるのです。そのためそれは間接的な倫理的義務と見なされるのです。そういった義務の履行を通じて、相手の立場を深く理解でき、相手が何に心を痛め、何に傷つくかということが分かってくるはずなのです。

私の体験

2015年頃、アラブの国々から大量の難民がドイツを中心としたヨーロッパに押し寄せてきました。そこで私は彼らとの交流を深めるための集まりに参加したことがありました。それまで私は難民に対して、貧しい国から来た貧しい人々というイメージを持っていました。正直言って、あまり教養もないのではないかと思っていました。ところが、彼らに会ってみたらぜんぜん違ったのです。医者や弁護士や、なかには日本の大使館で働いていたことがあるということで日本語が堪能な人までいたのです。そして、彼らの話を直接聞いたことによって、本当に大変な思いをして、ドイツまでやってきたことを知ったのです。彼らと触れることによって、彼らが何に苦しみ、何に傷つくか、といったことがおぼろげえながら見えてきたのです。

 

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