前回、カントとショーペンハウアーの思想をもとに、動物を殺して食べることの倫理的意味について考えてみました。食肉について語るのであれば功利主義についても語るべきでしょう。なぜなら動物愛護の立場は、功利主義と密接に関わってきた歴史があるからです。
功利主義の立場
古典的な功利主義は、快楽を善と見なし、その最大化を目指します。反対に、苦痛を悪と見なし、その最小化に努めます。その立場の創始者の一人として数えられる、ジェレミー・ベンサムは以下のようなことを述べています。
問題は、理性があるか、話す事ができるか、といったことではなく、苦痛を感じるということである。なぜ法律はいかなる感覚を持つ生き物をも保護の対象としないのだろうか? いつの日か人類社会はその庇護のマントを、呼吸をする存在すべての上にまで広げることになるだろう。(ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』)
先ほど触れたように、ベンサムをはじめとする古典的な功利主義者は、苦痛の最小化に努めます。そして苦痛を感じるのは、人間だけではなく、動物も同じです。そうであるならば、動物にも関心を払い、彼らの苦痛の軽減に努め、そのための法律を整備していくべきであることが説かれているのです。
ここだけ見ると、ベンサムは動物を殺して食べることを許容しないように見えますが、そうではありません。というのも、苦痛を伴わない殺し方というのも可能だからです。ベンサムのみならず、現役でもっとも名の売れている功利主義者であるピーター・シンガーなど、多くの功利主義者が苦痛の伴わない殺し方であれば容認するのです。
もっと言えば、単に許されるどころか、積極的に推奨される可能性すら、私たちは想定することができます。やはり功利主義者であるディーター・ビルンバッハ―などは、人間の管理下のもと、まったく外敵がいなく、適切な医療を受けられ、餌も自分で探す必要がなく、一切の苦しみを感じずに一瞬で死ねるのであれば、野生で生きていくよりもよっぽど恵まれている可能性について言及しています。
それで結局・・・
功利主義者の多くは食肉に批判的なのですが、決して全否定しているわけではなく、条件によっては許容する、それどこか推奨する可能性だってあるのです。
ただ問題は、先ほど私は「条件によって」と書きましたが、その条件が明確に示せない点にあると言えます。そして、なぜそれが示せないかというと、結局、幸福ならびに苦痛の総量など図りようがない点にいきつくのです。
五歳の長男は(快楽に関しては)「この肉のうまさは80だ」とか、(苦痛に関しては)「今のお腹の痛さが30だ」などと言いますが、私を含めて普通の人、ましてや動物は、彼のような快・苦を数値化するというような特殊な能力を持っていないのです!
そのため結論としては、私は食肉に関して(少なくとも古典的な)功利主義には現状を変える力はないと考えています。
将来の形
しかしながら将来、功利主義とは別の理由から、食肉が一掃される可能性がないわけではないとも思っています。
前回の記事にも書きましたが、ドイツではベジタリアンが幅を利かせていて、ベジタリアン料理が充実しています。多彩だし、うまいのです。私は食堂などで、たまに肉料理と間違えて取ってしまい、後から「あれ肉じゃなかったの?気づかなかった!」なんてことがあります。
こういった技術がもっと向上して、本当は肉料理じゃないのだけれど、肉料理のような味であれば、「わざわざ動物を殺さなくても」というような機運が高まっていくのかもしれません。
ひょっとしたら数百年後には、人々は「昔の人間は動物を殺して食べていたんだって、やだー信じられなーい」なんて会話をしているかもしれませんよ。