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動物を殺して食べるということ | カントに学ぶ意志の倫理学

動物を殺して食べるということ

肉食の是非カント倫理学

数回にわたって、カントとショーペンハウアーと絡めて動物倫理の話をしてきました。今回はその流れで、動物を殺して食べること、つまり、食肉の是非について考えてみたいと思います。

カントの立場

まずカントについてですが、前々回の記事において触れたように、彼は動物虐待や無意味な動物実験に対して否定的な態度を示しています。当時の(デカルト以来の動物は人間が利用するために存在する自動機械と考えられていた)時代背景を踏まえると、かなり先進的な考え方を示していると言えます。

同情心や感謝について
カントは理性を欠いた、同情心や感謝といった感情のみに由来する行為には倫理的価値を認めません。しかし、カントはそういった感情の肯定的な役割を一切認めていないというわけではありません。その効用についても明確に語っているのです。

ただカントは、動物を殺して食べることの是非についての立場表明はしていません。まったく考察を加えていないのです。そもそも、それが倫理的な問題になりうるという発想すらなかったように私の目には写るのです。

とはいえ、カント倫理学の理論的な性格から帰結は予想することができます。―—カントによれば、道徳法則というのは個々人が自ら考えて導くものであり「何が正解」ということはありません。つまり、動物を殺して食べることは道徳法則にもなりうるし、そうでないという結論も十分可能なのです。後者の場合、つまり、動物を殺して食べることを反法則的であると判断した場合には、当然それに従わなければならないことになります。もし利己的な理由でそれを反故にするようなことがあれば、それは倫理的悪と見なされるのです。

逆に言えば、それ以外のケース、つまり例えば、動物を殺して食べることを反法則的だと見なさなかった場合や、そもそも倫理的な問題として自覚されなかったような場合にはそこから生じた行為は倫理的善でも悪でもないのです。カントの言い方だと「倫理的無記」(adiaphora)に分類されるのです。 

ショーペンハウアーの立場

他方で、ショーペンハウアーは、動物を殺して食べることを倫理的問題として捉え、考察を加えています。

ショーペンハウアーの倫理学説は「共苦倫理」(Mitleidsethik)などと呼ばれています。共に苦しみ、その共苦感情に発する行為に道徳的価値を見出すためです。その共苦の対象は人間に留まりません。動物も苦しみを感じる主体であり、そのため倫理的に扱うべき対象なのです。

このような説明からは、ショーペンハウアーは動物を殺すことなど認めそうもないように思えるかもしれませんが、彼は人が動物を殺して食べることを必ずしも否定していません。例えば、食料に恵まれていない北方民族は動物を殺して食べることはある意味で仕方のないことだとしているのです。

ドイツの現状

ただ裏を返せば、ショーペンハウアーは、現状の食べ物にあふれている先進国においては、おそらく食肉を肯定しないだろうということです。

このようなショーペンハウアー的な発想は、現在の(食べるのに困らない)ドイツにかなり浸透しており「動物を殺す必要などない」と主張する人は私の周りにも結構います。

ドイツではレストラン行けば、必ずベジタリアン用のメニューがあります。ベジタリアン専用のレストランも珍しくありません。

最近、子供が通っている幼稚園の親同士の会話で、子どもたちが通っている幼稚園にも、ベジタリアンメニューがあるという話になりました。園児が自分で菜食の決断をしているはずがなく、親が望んでそうしているのです。

その場にいた親のなかに、老人ホームで仕事をしている人がいたので、私はその人に老人ホームの状況について尋ねてみました。私は「いやー、老人ホームでも、誰がベジタリアンで、誰がビーガン(肉だけではなく、卵や乳製品も口にしない)かについて、いちいち頭に入れて対応しなくてはならず、大変だよ」といった反応が返ってくることを予想していたのですが、まったく逆でした。「ベジタリアンなんて一人もいないよ」と言うのです。

確かに考えてみたら、現在老人ホームに入っているような世代の人たちは戦中から戦後にかけての貧しい時期に幼少期を過ごしたような人たちで、食べ物が口にできればそれで幸せ、ましてや肉を口にできるなんて贅沢という感覚のなかで育った人たちです。彼らのなかに「食肉の倫理性とは?」「悪かもしれないのでは?」といった問いが思い浮かぶことすらなかったのではないでしょうか。

彼らはピーター・シンガーなどが出てきて動物愛護運動が活発になった頃には、すでにいい大人になっていた人たちです。そんな彼らが、動物を殺して食べることが倫理的な問題になりうるという発想にたとえ触れたとしても、心の奥底に響かないのも無理からぬことなのではないでしょうか。

まとめ

カント倫理学の理屈だと、それが倫理的問題になることへの自覚がまったくなかったような人が肉を食べたところで、それは倫理的悪になりようがないのです。

とはいえ、このことはカントに限らず(どんなに厳格な)菜食主義者も、同じなのではないでしょうか。つまり、例えば、カントが生きていた時代のように動物への権利意識が希薄であったり、また、戦争中に生きるために食べられるものは何でも口にしていた人たちに対して、倫理的悪のレッテルを貼るようなことはしないのではないでしょうか。

もしくは私が知らないだけで、本人の置かれた状況やその人の内面などを一切鑑みることなく、例外なく「食肉=倫理的悪」と主張する論者もいるのでしょうか。もしいるとしても私なら、「そんな杓子定規なことを言っているから知名度もないし、賛同も得られないのだ」と一蹴しますが、いかがでしょうか。

私は個々人が自分の置かれた環境下において自ら考えて、判断すべきものだと捉えています。

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