(new!) オンライン講座の受講生募集

4月26日(金)から、NHKカルチャーセンターでオンライン講座を担当します。カントや倫理学に対する事前知識があっても、なくても構いません。対話形式で進めるので、みなさんの理解度や関心にそって講座を進めていきます。

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動物を殺して食べるということ

肉食の是非 カント倫理学

数回にわたって、カントとショーペンハウアーの動物倫理についての話をしてきました。今回はその流れで、動物を殺して食べること、つまり、食肉の是非について論じてみようと思います。

カントの立場

まずカントについてですが、前々回の記事において触れたように、彼は動物虐待や無意味な動物実験に対して否定的な態度を示しています。当時の(デカルト以来の動物は人間が利用するために存在する自動機械と考えられていた)時代背景を踏まえると、かなり先進的な考え方を示していると言えます。

感情、とりわけ、同情心や感謝について
カントは理性を欠いた、同情心や感謝といった感情のみに由来する行為には倫理的価値を認めません。しかし、カントはそういった感情の肯定的な役割を一切認めていないというわけではありません。その効用についても明確に語っているのです。

ただカントは、動物を殺して食べることの是非についての立場表明はしていません。そもそもまったく考察を加えていないのです。食料を確保すること自体が大変な時代であり、それが倫理的な問題になりうるという発想すらなかったのかもしれません。当然、カント自身は普通に肉を食べていました。よく火の通った肉を好んだそうです。

食肉の是非について、カント自身は直接は考察していませんが、帰結は十分推測することができます。もし食肉が道徳法則に反すると自覚しているのであれば、それを利己的な都合で反故にした場合には、道徳的悪と見なされることになりますが、道徳法則に反するとまでは判断しない場合、それどころか道徳的問題であることの自覚が一切ないような場合には、道徳的悪にはなりえません。

ショーペンハウアーの立場

ショーペンハウアーの倫理学説は「共苦倫理」(Mitleidsethik)などと呼ばれています。共に苦しみ、その共苦感情に発する行為に道徳的価値を見出すためです。その共苦の対象は人間に留まりません。動物も苦しみを感じる主体であり、そのため倫理的に扱うべき対象なのです。

そんなショーペンハウアーは、カントとは異なり、動物を殺して食べることの倫理的意味について考察を加えています。

ここまでの説明からは、ショーペンハウアーは動物を殺して食べることなど認めそうもないように映ったかもしれませんが、実際のところ彼は人が動物を殺して食べることを必ずしも否定していません。例えば、食料に恵まれていない北方民族は動物を殺して食べることは生きていくためには仕方のないことだとしているのです。ちなみにショーペンハウアー自身も当然のように肉を食べていました。

ドイツの現状

ただ裏を返せば、ショーペンハウアーは、現状の食べ物にあふれている先進国においては、おそらく食肉を肯定しないだろうということです。

このようなショーペンハウアー的な発想は、現在の(食べるのに困らない)ドイツにかなり浸透しており「動物を殺す必要などない」と主張する人は私の周りにも結構います。ドイツではレストラン行けば、必ずベジタリアン用のメニューがあります。ベジタリアン専用のレストランも珍しくありません。完全に市民権を得ているという感じです。

最近、子供が通っている幼稚園の親同士の会話で、子どもたちが通っている幼稚園にも、ベジタリアンメニューがあるという話になりました。園児が自分で菜食の決断をしているはずがなく、親が望んでそうしているのです。

その場にいた親のなかに、老人ホームで仕事をしている人がいたので、私はその人に老人ホームの状況について尋ねてみました。私は「いやー、老人ホームでも、誰がベジタリアンで、誰がビーガン(肉だけではなく、卵や乳製品などを含めた動物性の食品を一切口にしない)かについて、いちいち頭に入れて対応しなくてはならず、大変だよ」といった反応が返ってくることを予想していたのですが、まったく逆でした。「ベジタリアンなんて一人もいないよ」と言うのです。

確かに考えてみたら、現在老人ホームに入っているような世代の人たちは戦中から戦後にかけての貧しい時期に幼少期を過ごしたような人たちで、食べ物が口にできればそれで幸せ、ましてや肉を口にできるなんて贅沢という感覚のなかで育った人たちです。彼らのなかに「食肉の倫理性とは?」「悪いことなのでは?」といった問いが思い浮かぶことすらなかったのではないでしょうか。そういった環境が身に染みている人には、肉を食べないという思想は、心の奥には響かないのだと思います。

疑問

カントもショーペンハウアーも食肉自体を否定するようなことはしません。カント的な言い方をすれば、本人の意志次第であるし、ショーペンハウアー的な言い方をすれば、その人の置かれた食料自給環境によるのです。

ただ、それは食肉に否定的な論者も同じなのではないでしょうか。例えば、カントやショーペンハウアーが生きていた頃や、今の年配の人が経験したような、食べるのにも苦労したような人が肉を食べることにまで、道徳的悪のレッテルを貼るようなことはしないのではないでしょうか。

もしくは私が知らないだけで、本人の置かれた状況やその人の内面などを一切鑑みることなく、例外なく「食肉=倫理的悪」と主張する論者もいるのでしょうか。もしいるとしても私なら、「そんな杓子定規なことを言っているから知名度もないし、賛同も得られないのだ」と一蹴しますが、いかがでしょうか。

さいごに

とはいえ、私は「だから何も考えずに動物を殺して食べてよいのだ」などと言うつもりはありません。むしろ、大いに考えるべきなのです。私は、何も考えずに肉を食べている人間と、同じように肉を食べるものの、そのことの意味についてしっかりと考え、自分の意見について理路整然と語れる人間の間には、天と地ほどの差があると私は思っています。