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考慮と帰結の関係 | カントに学ぶ意志の倫理学

考慮と帰結の関係

考慮と帰結の関係カント倫理学

私の授業に功利主義者を自称する学生が来ています。先日、彼がおかしなこと、興味深いことを言ったので、その話をしたいと思います。

以前私はこのブログにおいて、過程功利主義と結果功利主義の差異についての話をしたことがありました。

「結果」とは何を指すのか、功利主義者に聞く
少なくとも古典的な功利主義者であるベンサムやミルは、「多くの幸福を生み出す行為が倫理的に正しい」とは言っていません。そういった「傾向」を持つ行為が倫理的に正しいと言っています。彼らが言う「傾向」とは何なのでしょうか?

ここにも簡単に説明しておきたいと思います。

ある人物Aは、人々を幸福にさせる意図あり、かつ、その考慮が妥当であったものの、結果が伴わなかったとします。過程功利主義は、過程に重きを置くため、Aの行為に倫理的価値を認めます。他方で、過程功利主義は、結果そのものを倫理性の試金石とするため、Aの行為に倫理的価値を認めません。

別の人物Bは、何も考えずに行動して、結果的に人びとを幸福にしたとします。過程功利主義では、Bの行為のうちに倫理的価値を認めません。他方、結果功利主義では結果のみが評価の対象になるので、倫理的善性が認められることになるのです。

過程功利主義と結果功利主義は、同一の行為について正反対の評価を下すことがあり、根本的に異なる立場と言えます。しかしながら、多くの功利主義者はこの違いを意識していないように私の目には映るのです。

先日、私が授業中にこのような話をしたところ、功利主義を自称する学生が以下のような問いを発しました。

結果への考慮は妥当なのに、結果が伴わないなんてことはありえないのではないか?考慮に欠陥があるから、結果が伴わないのではないか?

この理屈だと、過程功利主義と結果功利主義の区分など必要ないことになります。正しい考慮は、必ず幸福の総量の増大につながるのです。同じことですが、結果が伴わないのは、考慮に欠陥があったからということなのです。

秋元
秋元
みなさんはどう思われますか?

功利主義を自称する学生に対して、私は以下のような反例を挙げました。

仮に私が毎回授業中に支離滅裂で荒唐無稽な話ばかりしていたとします。それにもかかわらず、ある学生が、そんな私の言葉を信じて、悪しき結果が伴ったような場合、(もちろん私自身もですが、それに加えて)その学生の考慮のうちに落ち度があったと言えるでしょう。

他方で、それまでの私が言葉からは、言動を疑う理由を見出しえなかったとします。しかしながら、学期末試験は、本来の試験範囲と異なる問題が出されたとします。当然、平均点は悪く、生徒は不快になり、それは悪しき結果と言えます。それでも結果が伴わなかった原因は、生徒の考慮のうちにあると言えるでしょうか。それ相応の理由もないのに、「生徒が悪い」というのでは、筋が通らないのではないでしょうか。

私自身、考慮が妥当なものであれば、望ましい結果がもたらされる可能性が高まることは確かだと思います。しかし、そこに必然的な関係があるわけではないのです。考慮は妥当であったものの、自分の力の及ばない相手のミス、それどころか悪意、または不運などによって、結果が伴わないことは十分に起こりうるのです。

私の授業に来ている学生に限らず、功利主義者の多くは、どうもこの点に気がついていない、もしくは、結果は見越せるものと思い込んでいる節があるのです。例えば、古典的功利主義者の代表格であるジョン・スチュワート・ミルは以下のように述べています。

行為の道徳性はその予見可能(foreseeable)な帰結によって左右される。(ミル『ベンサム論』)

「予見可能な帰結」とは一体どのようなことを指しているのでしょうか。そんなものがあるのでしょうか。ミルの文章を読んでいると、考慮と結果が合致しない状況など端らか想定されていないように見えるのです。もし彼がそのような可能性について思いが至っていなかったのであれば、それは彼の落ち度として批判されて然るべきなのではないでしょうか。

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