(new!) オンライン講座の受講生募集

4月26日(金)から、NHKカルチャーセンターでオンライン講座を担当します。カントや倫理学に対する事前知識があっても、なくても構いません。対話形式で進めるので、みなさんの理解度や関心にそって講座を進めていきます。

詳細はこちら

なぜ救える命を救おうとしないのか?

なぜ救おうとしないのか カント倫理学
あなたは自分の子供が、幼くして亡くなったら、その臓器を提供しますか?

多くの倫理学者は提供すべきことを説くと思います。

例えば、最近私がよく取り上げるロールズです。彼の想定する「無知のヴェール」という発想のもとでは、自分が子供を亡くした親である属性も、自分の子供が臓器を必要としているという属性も取り払われることになります。どちらにも属さない者であれば、亡くなった子供の臓器を提供することで、複数の子供の命が救えるのであれば、その手段を行使することに賛同するのではないでしょうか。

また、カントであれば、亡くなった我が子の臓器提供を申し出ることが、行為原理として客観的な視点から望ましいものであるかどうか吟味することを求めてきます。このような普遍化の思考実験の結果、多くの人がそこに道徳法則を見出すのではないでしょうか。カント自身が具体的に、困窮にある他人に手を差し伸べることや、他人の幸福に資するように努力することを義務の実例として挙げています。

私の目的として、促進することが義務であるような幸福が問題になるとすれば、それは他の人々の幸福でなければならない。(カント『人倫の形而上学』)

理性的に客観的な視点に立って考えてみれば、臓器を提供すべきことは自明のことであるように思えるかもしれません。しかしながら、現実には臓器提供を明確な意図を持って拒否する親が存在し、それも決して少なくありません。

そんな親の一人、シュミット・ヨルツィヒが、臓器移植を専門とする小児科医、ニコラス・ハースにインタビューした内容をまとめた記事があります。ドイツ語ですが、URLを載せておきます。

https://www.eltern.de/podcast/podcast-elterngespraech/mein-kind-als-organspender

以下からインタビュー全体の音声を聞くこともできます。ただこちらもドイツ語になります。

インタビュアーのシュミット・ヨルツィヒは、3人の子供の母親です。その彼女は自身の子どもたちが亡くなった後に臓器移植をするのに反対だと言うのです。理性的にではなく、感情的に自身の子供がメスで切り刻まれることに耐えられないというのです。

まあ、言いたいことは分からないでもありませんが、そんな彼女に対して、臓器移植を専門にしている小児科医のハースは以下のように諭すのです。

ニコラス・ハース
ニコラス・ハース

「我が子は他の子供に臓器を提供しないので、他の子供から臓器提供を受けることもしません」と言うのなら筋が通る。しかし、「我が子が死んでも臓器提供はしません」と発言しておきながら、我が子に臓器が必要となったときには「助けてください」と言いうのでは筋が通らない。

個人的には、まったくの正論だと思います。

ちなみに、カントも似たようなことを言っています。

苦境にある人間はそれぞれ、自分が他の人間によって救われんことを願っている。しかしながら、他方では、他人が苦境にあった場合に援助を与えたくないという自分の行為原理を公にしてしまうと、すなわち、その行為原理を普遍的な許容法則としてしまうと、自分自身が苦境に陥った場合に、誰もが同じように自分に援助を与えることを拒絶するか、あるいは少なくとも拒絶する権利をもつことになるであろう。〔中略〕この場合、自身の行為原理は自己矛盾するのである。(カント『人倫の形而上学』)

ハースの言い分に、インタビュアーのシュミット・ヨルツィヒも異を唱えるようなことはしていません(できていません?)。

続けて、ハースは、臓器移植をしている現場に足を運ぶようにシュミット・ヨルツィヒに訴えるのです。彼のなかには、救われる命があることを目の当たりにすることで、彼女の考え方が変わっていくはずであるという確信があるのです。

このあたりの話は、同情心や感謝の念といった感情を陶冶することを間接義務と見なし、そのため恵まれない境遇の人のもとに足を運ぶべきことを説くカントの立場にも通じます。

感情、とりわけ、同情心や感謝について
カントは理性を欠いた、同情心や感謝といった感情のみに由来する行為には倫理的価値を認めません。しかし、カントはそういった感情の肯定的な役割を一切認めていないというわけではありません。その効用についても明確に語っているのです。

また、ハースはシュミット・ヨルツィヒに、この問題について自身の子供たちと話し合うべきことを説いています。自分の一方的な視点に留まったり、思考停止に陥るのではなく、他者の意見を聞きながら、自らの考えを深めていて、自らの態度を定めていくことが、重要であるという彼の姿勢が見てとれます。

しかしながら、シュミット・ヨルツィヒは、命が救われる現場に行くことも、子供たちと話し合うことも約束しませんでした。彼女は最後まで臓器提供に傾くような姿勢は見せませんでした。私は彼女の話を聞いていて、「亡くなった子供の母親」という視点から動こうとしていないように感じられました。

反対に、インタビューには4歳の娘を亡くしたものの、臓器提供を申し出た母親の話も出てきます。その4歳の女の子が臓器提供をしたおかげで、3人の幼い命が救われたというのです。死んでしまい、どのみち灰になる運命の我が子の体が、複数の子供の命を救えるのであれば、私にはそれを拒否する理由を見つけることができません。

とはいえ、実際に自分の子供が死んでしまったら、別の感情が芽生えるということもあるかもしれません。ただ、その感情に流されてはいけない、抗わなければならないと私は思うのです。