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カントは臓器移植に対して何を語っているのか | カントに学ぶ意志の倫理学

カントは外科手術に対して何を語っているのか

臓器移植カント倫理学

前回の記事において、カント倫理学に照らし合わせても、自分の子供が亡くなったのであれば、その臓器を病気で困っている他の子供のために提供することは道徳法則たりえるのではないかという話をしました。

カントが生きていたのは今から200年以上も前ですが、その頃すでに外科手術の先駆けのようなものは行われていました。それに対するカント自身による以下のような記述が見られます。

器官として不可欠なある部分を奪う(不具にする)ということ、たとえば他人の顎骨に植え付けるために歯を贈ったり、売ったりすること、あるいは歌手としてより一層気楽に生活できるように自ら去勢手術を受けるなどということは、部分的な自殺に属する。(カント『人倫の形而上学』)

自分が一層気楽に生活ができるための手術に対して否定的な見解が述べられています。カントの動機主義的な立場に鑑みて、当然予想される言明と言えます。

カントは、これらの自らの器官を取り除くことを許容しない立場とは反対に、許容されるケースがあることについても言及しています。

すでに死んでいる器官、あるいは死なんとしており、それゆえに生命に有害をなす器官を切断手術によって取り除かせることは部分的な自殺には属さない。(カント『人倫の形而上学』)

前回の記事でテーマに挙がった、どのみち死んでしまった我が子の臓器を提供するかどうかという話はまさにカントの言う「すでに死んでいる器官」に当たると考えられると思います。

それが倫理的毀損に当たらないような、すでに死んでいる器官を切り取ることによって、生きている人の命が(複数)救われるのであれば、それを拒む理由を見つけることの方が難しいのではないでしょうか。

アイキャッチ画像(この記事の一番上にある写真)に、死後に私の臓器を他者のために使うことを承認する証書を載せておきました。私はこのカードに必要事項を記入しており、それを常に持ち歩くようにしています。

それはもちろん臓器を必要としている人たちのためですが、それは残された私の家族のためでもあります。もし私が私の意思がどうであったか分からないような状態で死んでしまえば、残された家族が判断に苦しむことにもなりかねません。私は自らの意思を明確に示しておくことで、そういった可能性を排除しておきたいのです。

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