ドイツでは出生前に遺伝子異常があるかどうか調べることができます(今確認してみたら、日本でもできるそうです)。私たち夫婦も妻が妊娠したときに検査するかどうかの話をしたのを覚えています。「知ってどうするんだ?」という思いがあり、私たちはあえて検査しませんでした。
先日、友人の小児科医と医療倫理について話をする機会がありました。彼の話によると、出生前診断でダウン症になる確率が高いことが分かった親のほとんどが中絶を選択するというのです。
私の友人の小児科医が担当したある家族は、それでも子供を産むことを決断したそうです。子供がダウン症であろうと自分の子供であるため、そして、たとえダウン症であっても、必ずしも本人が不幸であるわけではないという考えにもとづく判断です。
しかし、周りの反応は違ったというのです。「どうして産んだんだ?」「産むべきではなかった」といった非難の声を上げる者や、離れていった人たちがいたそうです。
ここには、まさに前回の記事において発した問いが横たわっていると言えます。それは以下のような問いでした。
この問いに対して、カント自身が正面から答えているので、ここで当該箇所を参照してみたいと思います。そこでは以下のように語られています。
あることが義務であるかないかという客観的判断においては、確かにしばしば誤るということがありうる。しかしながら、私がそのことをあの客観的判断のために私の実践的(ここでは、裁く)理性と比較したかどうかという主観的判断においては、私は誤りようがない。(カント『人倫の形而上学』)
カントは、道徳判断が客観的には誤りうることを認める一方で、主観的な正しさは誤りようがないと言い切っているのです。
ここで気になるのは、客観的に道徳判断が誤りであった場合です。そこに何か問題があるのでしょうか。例えば、倫理性が損なわれるといった弊害があるのでしょうか。
このような疑問に対するカントの答えは、先の引用文の直後に記されています。
誰でも良心に従って行為したということを自覚している場合には、その人からもはや負い目のあるやなしやについては何も要求されないのである。(カント『人倫の形而上学』)
自分が良心に従って行為したことへの自覚があるのであれば、負い目は生じえない、つまり、倫理的には正しいとカントは言っているのです。
もし道徳法則をうまく導くことができない場合に倫理的善性が認められない、それどころか悪になる可能性があるとなると、その人の能力や運が倫理性に決定的な役割を果たすことになります。カントがそういった倫理性に関する偶発性を完全に排除する論者であることについては、すでに「倫理的善悪と偶発性」の記事においてまとめました。興味がある人は読んでみてください。
内容について簡単に確認しておくと、望ましい結果を必要条件とする功利主義や、卓越性を倫理的善と見なす徳倫理学には必ず偶発性が絡んできます。他方の、カント倫理学は善いことをしようとする意志のうちに倫理的善性を見出すのであり、そこに偶発性が介在する余地はないのです。倫理的善とは本人が「やろう」と意志さえすれば、必ず実現するものなのです。
道徳法則に客観的な「正解」などといったものはなく、あえて「正解」という表現を使うのであれば、それは私という主観のうちにのみ存するものなのです。
道徳法則については以下の詩的な文面にその特徴が現れています。
二つの事物があって、それについて我々の考察が一層しばしば、一層継続的に没頭していけばいくほど、いよいよ新たな、そして増大していく感嘆と畏敬の念を持って心を満たすものがある。すなわちそれは、我が頭上にある星繁き天空と我が内なる道徳法則である。(カント『実践理性批判』)
上の文言が刻まれた石碑
星空も道徳法則も、どちらも感嘆と畏敬の念を抱かせるものであることが語られているのですが、他方で、そのコントラストにも目を向けることができます。
天空の星空というのは私の外にあり、観察ミスや計算違いによってその動きを導出するのに誤りが介在するということは十分にありえます。他方の道徳法則というものは、行為主体の内に存在するのであり、その導出を主観的に誤るということは起こりえないのです。
先ほどから言及しているダウン症の話に絡めて言うと、これから産まれてくる子供がダウン症であることが分かっていても、仮に「本来は生きられる命を自分の判断で奪うべきではない」という命題を道徳法則と見なして、それを利己的な都合によってではなく、それが道徳法則であることを理由として行為したのであれば、それは道徳的に正しいのです。たとえ当人以外(のすべての人)が賛同しないとしても、その善性は不変なのです。