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自転車泥棒に間違えられた話 | カントに学ぶ意志の倫理学

自転車泥棒に間違えられた話

自転車泥棒カント倫理学

これまでの話しに関連して、今回も行為の根拠についての話をしたいと思います。

相手の思い込み

私の家の前に駐輪場があります。先日、夜中にその駐輪場の前を通ると、ライトがつけっぱなしの自転車が一台止まっていました。もったいないと思い、私はそのライトを消そうとしました。

すると駐輪場正面の建物の上の方から怒鳴り声が聞こえてきました。

男

触るなー!

見上げてみると、三階の窓からひとりの男の人が顔を出し、こっちを見ています。

私は彼に言いました。

秋元
秋元

ライトがつけっぱなしだから、消そうとしただけだ。

正直私は「ああ、そういうことか。怒鳴ったりして悪かったな」といった反応が返ってくるかと思ったのですが、甘かった・・・。彼は攻撃的な口調で以下のように続けたのです。

男

ライトは自動で消えるんだから、そのままにしておけ!

秋元
秋元

(え、なんでそうなるの?)・・・。

彼は私が自転車泥棒であり、ただ言い訳をしているだけと思い込んでいたのでしょうか。どうしても他人に自分の自転車を触られたくなかったのでしょか。過去に何かあったのでしょうか。

真相は分かりませんが、個人的にもっとも可能性が高いと思うのは、私の対応から私が自転車泥棒でないことは分かったものの、最初に強い口調で声をかけてしまったものだから、引くに引けなくなってしまったという可能性です。

だとすればボタンの掛け違いは 私を犯人と決めつけてしまった点にあることになります。

私の思い込み

思い込みとは怖いもので、実は私の方にもある種の思い込みがありました。それは、自転車のライトがつけっぱなしであったならば、それを消すことはよいことであるという思い込みです。悪い方向に作用する可能性などまったく考えていなかったのです。

怒鳴りつけられて以降、私は考えるのです。もし同じ状況だったら、私はまたライトを消そうとするかどうか、と。

また嫌な思いをすることになるかもしれないし、もう嫌だ、と正直なところ思います。しかし、それを理由に人がエネルギーを無駄使いしているのを見て見ぬ振りするのは違うのではないかとも思うのです。

もしそうであるならば、それが道徳的に正しいことであると信じるのであれば、私は同じ状況でも、同じ行為をすべきなのです。

また結果が伴わなく、嫌な思いをするかもしれません。しかし、結果が伴わないことや、嫌な思いをすることは、行為の倫理性に何ら影響を与えることはないのです。

善い意志は宝石のように、まことに自分だけで、その十分な価値を自身のうちに持ち、光り輝くのである。役に立つとか、あるいは成果がないといったことは、この価値に何も増さず、何も減ずることはないのである。(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』)

倫理的には自分が正しいと判断したものが正しいのであって、それと結果の良さや、うまくいくかどうかという運の良さからは明確に区別して判定されるべきものなのです。

今後

私はもし同じ状況に身を置いたならば、同じことをしようとするでしょう。それが倫理的に正しいことだからです。

また私は、私のことを怒鳴りつけた人のことについても考えます。彼は同じ状況において、また同じように人を怒鳴りつけるのだろうか、と。

私はそうはならないのではないかと期待しています。というのも彼は、私が彼のためになした可能性があることを自覚したはずだからです(たとえその場では私がうそをついていると判断したとしても、後からそうでない可能性についても考えるはずだからです。いくらなんでもその可能性すら一切考えないということはないと思います)。

だとすれば、今回私が犠牲になったことも多少の意義はあったことになります。これは気休めでしょうか…。

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