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カントは私たちに本当に生きる上での指針を与えてくれるのか | カントに学ぶ意志の倫理学

カントは私たちに本当に生きる上での指針を与えてくれるのか

理性の公的使用カント倫理学

カントは自分の主観的な視点のみからではなく、他者の客観的な視点に立った上で、どのような行為原理が望ましいものであるか考えることによって道徳法則を導くことができると考えています。ここにはカントによる、人間理性の普遍性への信頼があるのです。

最近、このブログを見た人から、カントの言っていることは理想論であり、彼の考え方を自分の生き方に反映させることなどできないという声を聞きました。どういうことかというと、上のような手続きによって道徳法則を導いたとしても、人はたいてい会社などの何らかの組織に属しており、その限り、組織の理屈や命令には従わなければならず、自分の導いた道徳法則といったものを前面に押し出すわけにはいかないと言うのです。

そんなカントの言うように理屈通りいかないよー

言いたいことはよく分かります。もしカントが「それでも自分の考え方や信念を貫け」と言うのであれば、それは現実を無視した理想論であると言われても仕方ないと思います。

カントはこのような異論に対して、どう答えるのでしょうか

カント自身、そういったジレンマ的な状況があることを十分承知しています。そして、そのような出来事が起こりやすい場所として、軍隊を挙げています。確かに、軍隊というのは上官の命令は絶対であり、部下が異論を挟むなどといったことは許されない場所と言えます。

カントは軍隊において、将校が上官から承服しかねる命令を受けた場合について以下のように述べています。

ある将校が上官から命令されて任務に就きながら、その命令が目的に適ったものではないとか、役に立たないなどとあからさまに議論するとしたら、それは組織を堕落させることになるであろう。命令には従わなければならない。(カント『啓蒙とは何か』)

この箇所だけ読むと、将校本人が納得していなくとも、上官の命令には盲目的に従うべきことが説かれているように見えます。しかし、もしそうだとすると、本ブログのこれまで繰り返されてきた内容、つまり、カントは自分の頭で主体的に考え、決断し、それに従って行動すること(自律)を求める論者であるという内容と矛盾することになるのではないでしょうか。

実は、カントの真意は先の引用文の後に述べられているのです。

しかし、その将校が見識ある者として、軍務における失策を指摘し、これを公衆に発表してその判断を仰ぐことは当然、妨げられてはならない。(カント『啓蒙とは何か』)

自分が許容できない命令を受けた場合に、その内容を公にすることは妨げられてはならないことが説かれています。その理由については別の著作において記されています。

我々は自分の思想を伝え、また、我々にも思想を伝えてくる他者とともに、いわば共同して考えるのでなければ、どれほどのことを、また、どれほどの正当性を持って考えることができるのであろうか。従って、人々から自分の思想を公的に伝える自由を奪いとる外的権力は、彼らから思想の自由をも奪いとるであろう〔中略〕と言うことができる。(カント『思考の方向を定めるとはいかなることか』)

私だけ(主観的に)ではなく、ある組織に属する(偏った立場の)人々だけでもなく、様々な立場の人々を介して(つまり、客観的な視点を交えて)議論することによって、よりよい方向性が見えてくるのです。カントはそのような営みを「理性の公的使用」と称しています。組織はそれを妨げるべきではないこと、そして、組織内の人間は積極的に行使すべきことが説かれているのです。

この記事の冒頭に、道徳法則の導出に関して、カントのうちに、人間理性の普遍性への信頼があるという話をしました。ここに(つまり、理性の公的使用に関して)も同様に、普遍性への信頼が貫かれているのです。

では、どのようにして私たちは自らの理性を公的に使用することができるのでしょうか。もっとも典型的なのは、内部告発です。一昔前まではリスクの伴う試みでしたが、今日は法制度も進み(例えば、公益通報者保護法)、また、ネットの浸透もあり手段は多種多様化しており、行動は起こしやすくなってきていると言えます。匿名の告発やリークなどといったことはそう珍しいものではなくなってきています。

それでもやはり、人によっては「簡単にできるものではない」と思うかもしれません。そうであれば、理性の公的使用のポーズだけでもとってみてはどうでしょうか。ポーズとはどういうことか、ここでひとつ実験してみましょう。

私とまったく面識がない人も、面識がある人からの言葉として想像してみてください。

私

君の言っていたことブログに書くよ!

自分のこと正しいと思っているだったらいいよね?

ドキッとしませんでしたか。このような短い一文だけでも、それを目にした人は、自分の言動に対して慎重になるのではないでしょうか。

関連することは次回の記事にも書くつもりですが、イエスの言葉に「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか自分で分かっていないのです」という言葉があります。同じように、法律に反する行為、道徳法則に悖るように見える行為、重大な結果を招く行為といったものの多くは、本人が自身の行為の意味や影響について考えていない(そのため気がつかない)ためになされるのだと私は思っています。

カントは万人に理性が伴っていると信じています。誰もが本来、理性的に考えさえすれば気づくはずのことでも、考えないから気がつかないのです。そういった人たちには理性が欠けているのではなく、単に持っている理性を行使する意志を欠いているに過ぎないのです。

最後に言いたいことについてまとめておきますと、自分の許容しがたい命令を受けてしまったような場合、それに抗するには、理性の公的使用が有効な手段と言えます。しかし、そうなってしまった後では、そこに困難、葛藤、苦しみが伴うことはある程度覚悟しなければなりません。そのため、普段から考えておくべきは、そもそもそういった命令を受けないで済むような予防線を張っておくことなのではないでしょうか。

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