前回の記事において、自身の幸福の確保に努めることが間接義務たりうることについて触れました。それがなぜ間接義務たりうるのかというと、自身が不幸であることが悪へのきっかけとなり、善への障害となるためでした。
しかしながら、自身が幸福になることを目的としてしまっては間接義務になりません。あくまで倫理的善の土壌を整えることが目的であり、自身の幸福を確保することはそのための手段に過ぎないのです。
とはいえ、自身の幸福の確保に努めていさえいれば、実際に幸福を確保することができるのかとえばそうではありません。例えば、勉強はできない、スポーツもできない、芸術もまったくダメ、何も取り柄がない人が幸福の確保に努めた場合を考えてみてください。それでは幸福の確保はおぼつかないと思います。
そう考えると、自身の幸福の確保のために、ある程度の能力を有している必要があると言えるのではないでしょうか。カント自身、その種の義務が存在することについて言及しています。
〔自身の能力を伸ばそうとしない者は、自分のなかで〕ひとつの自然が、自然法則に従って以前として存在しうるが、ただし、(南海の人間同様に)自身の才能を錆びつかせ、自らの人生はただ怠惰と、愉快と、生殖のために、一言で言えば、享楽のために使うように留まるということが明らかになるであろう。しかしながら、このようなことが普遍的自然法則となることを、あるいはそれがかかる法則として我々のなかに自然的本能によって置かれていることを欲しようとしても、それは不可能なのである。(カント『基礎づけ』)
これでも意訳しているのですが、十分分かりにくいと思います。もう少し平易な形で言い直すと、誰も自分の能力を磨く努力をしない世界を思い描いてみたとき、それが望ましい世界ではないことが自覚できるはずであることが語られているのです。つまり、自分の能力を磨こうとしないことは行為原理として普遍化の思考実験に合致しないのです。
カントはこの種の義務を不完全義務と見なしています。不完全義務と完全義務については前々回の記事において説明しました。もう少し説明が必要という人は、そちらの記事を参照してください。
ここにも簡潔に確認しておくと、不完全義務とは、不履行が許される義務のことでした。反対に、完全義務とは、蔑ろにすることが許されない義務のことでした。
もし自分の能力を磨くことが不履行の許されない完全義務であるならば、私たちは常に、ひと時も休むことなく自身の能力の陶冶に努めなければならないことになります。そんなことは不可能であり、カントもそんな無茶なことは要求しません。つまり、自分のできる程度において、義務を履行すればそれでよいのです。
今回のこの記事を読んでいて、アリストテレスの言う、アレテー(卓越性)を思い起こした人がいるかもしれません。自分の能力を磨くことに価値を見出すという点において、確かにアリストテレスとカントは一致しています。ただ、アリストテレスの場合は、アレテー(卓越性)があるから、例えば、困っている人を救えるのであり、自身も幸福に与ることができるのであり、そのためにそこに徳が認められるのです。
他方のカントの理論では、自身の幸福の確保に寄与するという側面において確かに価値があると言えるものの、それは倫理的価値を意味しません。また、カントは不完全義務の例として自身の能力の涵養を挙げているものの、その行為自体に倫理的価値があるわけではなく、あくまでそれを行為原理として、善意志から行為した場合に、その行為者の内面に倫理的価値が認められるのです。両者の間にはやはり本質的な点においてやはり隔たりがあると言えます。
次回の記事においても引き続き、能力を伸ばす義務について論じたいと思っています。ただアリストテレスや徳倫理学ではなく、遺伝子操作を用いた新しい倫理的問題について扱うつもりでいます。