前回の記事では、悪しき環境が、人間の行為や倫理性に悪しき影響を与える可能性について言及しました。今回は、その「環境」のあり方について考えてみたいと思います。政治哲学、法哲学、厚生経済学といった分野に足を突っ込んだ話になります。
前回の記事のなかに、「困っている人がいるのに、周りが何もしないことは、伝統的な功利主義の立場では認められない」という文面がありました。
しかしながら、実際には、たった一人の困っている人を無視してしまった方が、その他大勢の人にとっては都合がよく、そのため幸福の総量も(そうでない場合よりも)増加するということもありうるのではないでしょうか。たった一人どころか、もっと多くの人々が「犠牲」になる(なるべき)ケースすら想像することができます。例えば、一割が搾取される側であり、九割が搾取する側である社会が、幸福の総量としては最大値になるといったケースです。
このような一部の人を切り捨てるような仕組みや姿勢が倫理的に正しいという帰結は、常識的倫理観からは受け入れがたいものあります。
上述したような伝統的な功利主義の立場の抱える困難を指摘したのが、ジョン・ロールズです。彼は功利主義の問題点を指摘した上で、カントの発想を取り入れ、よりよい理論、そして、よりよい社会を作ることを企図したのでした(どのあたりが「カント的」なのかということは次回の記事において言及します)。
ロールズの正義論は、二つの基本原理から成り立っています。
その第一原理は以下のようなものです。
誰のどのような行為でも、その行為が、あるいは、その行為原理から見て、その人の意志の自由が、他者の自由と両立可能であるならば、その行為は妥当である。(ロールズ『正義論』)
これは一般に「自由原理」と呼ばれています。自分の自由は他人の自由を侵害しない限りで許されるべきなのです。極めて当然の主張のようにも映ります。ただ、この原理だけでは、他人の自由を侵害しない限り何をしても許されることになります。そして、自由の結果生まれた格差は野放しになり、おそらく、どこまでも拡大していくことになります。
ロールズ正義論の真骨頂はこの後に続く、もうひとつの原理のうちに凝縮されています。その原理は以下の二つの条件から成り立っています。
社会的・経済的不平等は、次の二条件を充たすように構成されなければならない。
(a)そうした不平等が、正義に適った、貯蓄原理と首尾一貫しつつ、もっとも不遇な人々の最大の便益に資するように。
(b)公正な機会均等の諸条件のもとで、全員に開かれている職務と地位に付帯する(ものだけに不平等が留まる)ように。(ロールズ『正義論』)
最初の条件は、「格差原理」、二つ目の条件は「機会平等原理」などと呼ばれています。もっとも不遇な人に、最大の利益があるべきこと、そして、必ず這い上がるチャンスがあるべきことが説かれているのです。
このような原理に従うために有効となるのが「無知のヴェール」という発想です。無知のヴェールとは、文字通り、自分の目の前にヴェールがあるのです。そのヴェールによって自分は自らの属性(人種、年齢、性別、職業などなど)について何も知らないものと仮定するのです。そして、その上で判断を下すのです。
ひとつ分かりやすい例を挙げると、現在の日本の人口は団塊の世代の割合が極端に大きく、そのため政治家は彼らに気に入られる(少なくとも嫌われない)ような政策をとってきました。しかし、そのしわ寄せが若い世代にいっていることは明らかです。「若い世代」と言っても、もっとも割を食った世代である「失われた世代」「ロストジェネレーション」と言われる世代は、すでに40代半ばに差し掛かっています。その世代は、定職に就けず、そのため結婚ができない、子供も持てないという人であふれています。そのことはすでに税収の低下、少子化といった様々な問題を引き起こしており、何らかの対策をとらない限り、そのマイナス面は今後さらに顕在化していくことが予見されます。そうなれば、(その世代の当事者たちに留まらず)社会全体にとってのマイナスになることになります。本来、政治家は、もっとも不遇な世代に、最大の恩恵があるような政策をとるべきであり、また有権者の方も(仮に自分自身には都合が悪くとも)そういった政策を支持すべきなのではないでしょうか。
カントの間接義務についての文脈で、自身が不幸であることは、倫理的悪への誘惑となり、倫理的善への足枷となるという話をしました。
そして、前回の記事において、あまりに余裕がないと、他人のこと、倫理的なことなど考えられなくなってしまうことについて言及しました。
(聖人でない限り)ある程度の社会的なインフラが整って、人間というものははじめて人間らしく、そして、他人のことを思いやり、倫理的な事柄についても関心を寄せられるようになるのではないでしょうか。