オンライン講座のお知らせ

2025年1月10日よりNHKカルチャーセンターにおいて「カントの教育学」をテーマに講座を持ちます。いつも通り、対話形式で進めていくつもりです。とはいえ参加者の方の顔が出るわけではありませんし、発言を強制することもないので、気軽に参加してください。
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続・続・みんながそれをやったらどうなる?

論理的矛盾とは カント倫理学

まずはこれまで話の復習からはじめたいと思います。

前回までのあらすじ

カント倫理学を研究している者の多くが、純粋な形式的な手続きのみから具体的行為の禁止を導けると主張します。彼らは例えば以下のような説明を展開するのです。

「私は約束を破る」という行為原理が普遍化された世界というのは、誰も約束を守らない世界ということになります。誰も約束を守らない世界では、そもそも誰も約束を結ぼうとしないはずです。そこでは「私は約束を破る」という行為原理を順守することが不可能になるのです。このことは、この行為原理は倫理的に許容できないものであることを意味するのです。

このような説明に納得できるでしょうか?できる人は少ないのではないでしょうか。ではどこがおかしいのでしょうか?

禁止すべきものが禁止できない

前回の記事では、普遍化の思考実験を純粋な形式的手続きとして理解すると、本来禁止すべきでない行為まで禁止されてしまうという話をしました。今回は反対に、本来は倫理的に許されない行為原理であるにもかかわらず、純粋な形式的手続きのみからは排除できない行為原理があるという話をしたいと思います。

今現在、コロナウィルスが猛威を振るっています。日本も本来は自粛要請が出ているのですが、大勢で集まってイベントをしたり、花見をしたりする人がいて、そのことが問題視されています。

しかし、普遍化の思考実験を純粋な形式的な手続きとして運用すると、「私はイベントに参加する」「私は花見に行く」という行為原理は普遍化したところで、何の論理的不整合も生じないのです。つまり、自分の好き勝手に動き回っている人間がいても、何の問題もないことになってしまうのです。このようなおかしな帰結の原因は、「コロナウィルスが猛威を振るっている」という経験的(実質的)な側面を無視してしまっている点にあると言えます。

他方で、現在のコロナウィルスが猛威を振るっている状況に鑑みて、みんながイベントに参加したり、花見に行ったりすることが、望ましいことであるかどうか吟味した場合には、それが望ましいことではないことは容易に想像がつくはずです。

それゆえ、普遍化の思考実験は、たったひとつだけであり、それは次のようなものである。「汝が、普遍的法則となることを欲する行為原理に従ってのみ行為せよ」(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』)

汝が欲することができるかどうかというのは、考慮する人間の主観的な判断が問われているのです。ただ、主観的な視点のみが問われているのではなく同時に客観的な視点に立ち、万人にとって欲せられる(望まれる)ものであるかどうかも同時に問われているのです。

そこでは当然、自分の置かれた状況という経験的(実質的)な側面も考慮に入れられることになります。コロナウィルスが猛威を振るっている状況下では、みんなが自分の好き勝手に歩き回ることは行為原理として普遍化を意欲することはできないでしょう。そうであれば、自分だけを例外視するのではなく、そのような行為原理は自分自身も避けるべきなのです。

記事の冒頭に、「私は約束を破る」という行為原理を例に、それが必ず倫理的悪であると決めつけてしまうことのおかしさについて指摘しましたが、困難の所在は同じところにあります。確かに一般的には約束を破ることは好ましいことではありませんが、より重要な義務がある場合、例えば、行き倒れになっている人を目にしたならば、些細な約束を反故にしてでも、その人を助けるべきでしょう。自分の置かれた状況という経験的(実質)側面を無視してしまうと、現実との齟齬をきたしてしまうのです

純粋な論理的形式のみを問題視すると解することの問題点のまとめ

三回に渡って、普遍化の思考実験を純粋な形式的手続きとして理解し、行為者の置かれた状況(実質)を無視して特定の行為の禁止を導いてしまうことの問題点について論じてきました。ここで困難の所在についてまとめておきたいと思います。

「正解」「不正解」があることになってしまう(前々回の記事の内容)

前々回の記事においてまとめたことですが、ある特定の行為が禁止されるべきものとしてしまうと、例えば「自殺はダメ」とか「嘘はダメ」とか、そして、その判断を誰もが従わなければならない「正解」としてしまうと、別の人が誤謬を犯す可能性が出てきてしまいます。そして、正解を導くことができれば倫理的善の道が開け、その判断を誤ると倫理的悪を犯してしまうことになるのです。

このような理解のもとでは、倫理性は正しい判断が下せるかどうかという能力的な側面に還元されることになってしまいます。そして、意志のあり方は付随的な役割しか担わないことになります。もはや「意志の倫理学」とは言い難いでしょう。

みんながそれをやったらどうなる?
「みんなが君と同じことをしたら困ったことになるだろ」「君がその行為をするのはみんながしないことを前提にしているんだ(君は自分を例外視しているのだ)」ということを言う人がいます。しかし私は思うのです。だからなに?

「論理的不整合」という意味の不明瞭さ(前回の記事の内容)

前回の記事では、オニールの解釈の反例として、常識的倫理観からは受け入れられるであろう行為原理、例えば「私は看守になる」が普遍化の際に論理的不整合をきたしてしまうことがある点を指摘しました。しかし、このような行為原理を採用することは倫理的悪であると言われても承服しがたいと思います。

そもそも「論理的不整合」というのは、いったいどのようなことが意図されているのでしょうか。これがよく分からないのです。私にはカント自身の説明がその都度ブレてしまっているように見えるのです。例えば、カントはあるときは「そのような世界を想像すること自体不可能」と表現し、別の文脈では「自然が矛盾をきたす」と言い、別の箇所では「行為原理が矛盾する」という言い方をし、また別のところでは・・・といった具合なのです。

基準が一貫していないのであれば、妥当性云々以前の問題であると言わざるをえません。

続・みんながそれをやったらどうなる?
多くのカント倫理学研究者が、純粋な形式的な手続きのみから規範(具体的行為の禁止や命令)が導けると主張します。しかし、本当にそんなことが可能なのでしょうか。その是非について吟味してみたいと思います。

本来は戒められるべきなのに(今回の記事の内容)

最後に今回の記事では、前回の記事とは反対に、明らかに戒められるべき行為原理が許容されてしまうケースが多々あることについて指摘しました。純粋な形式のみを扱うということは、純粋数学や論理学のような記号のみを扱うということを意味します。そのような手続きから、複雑に入り組んだ実質的なこの世界において、私たちがすべきでないことなど導けるはずがないのです。

さいごに

この記事を読んだ上で、それでもなお「単なる純粋な形式的手続きから具体的な行為の禁止が導ける!」と主張できる方(カント研究者)がいましたら、ぜひご連絡ください。

このようなことを言っておきながら自分で言うのも何ですが、おそらく誰も何も言ってこないと思います。なぜでしょうかねぇ。