ウィルスに感染すること自体が倫理的悪なのか?

コロナウィルスについての倫理カント倫理学

ネット上にはコロナウィルスに感染した有名人やスポーツ選手などを非難する書き込みが見られます。また、感染した本人が謝罪する姿も見受けられます。例えば、ヴィセル神戸の酒井高徳選手は、自らの所属するチームのサイトに謝罪コメントを載せています。

酒井高徳選手の新型コロナウイルス感染症の陽性判定のお知らせ
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「情けない」「申し訳ありません」といった言葉が並んでいます。彼の人柄が表れた文面だと思います。

他方で、そこには本人が細心の注意を払って行動していたことも綴られています。おそらく自分でもどこで感染したのか見当もつかないような状態なのだと思います。だとすれば、そこまで自分を卑下して、謝罪する必要があるのかとも思えます。

もっとも私がこのように考えるのは、私自身がカント的な発想の持ち主だからなのかもしれません。アリストテレス主義者であれば、別の立場を取るでしょう。というか、そういったアリストテレス主義的な発想は実はけっこう私たちの周りにあふれており、まさにコロナウィルスに感染した他者を批判する人や、自らを卑下し、謝罪する感染者の根底にあるのだと私は思っています。

アリストテレスにとって健康とは

病気というのは苦痛なものです。そして苦痛についてアリストテレスは以下のように述べています。

徳と悪徳が快楽と苦痛に関わるものであることは明らかである。(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)

アリストテレスは明確に、苦痛は悪徳であると言っています。もし不健康が苦痛であるとすれば、(彼の編み出した)三段論法によって、不健康は悪徳であることになるはずです。

とはいえ、先ほども言及したように、自分からリスクを高めることをしたのでもない限り、コロナウィルスに感染したことは不運な面もあるはずです。不運であれば、当人の責任ではないようにも思えますが、アリストテレスはそうは考えません。まさに不運こそが悪徳なのです。彼は例として、生まれながら醜い容姿の人や、身分が低い者などを挙げて、彼らは幸福になれないため徳にも劣ることになると説明するのです。

アリストテレス研究者であるレイチェル・クーパーは、今回の記事のテーマである病気と絡めて、その人が生まれ持った疾病と、その人が生まれた環境に起因する疾病を区別することができない点をアリストテレスの問題点として挙げています。

例えば、先天的な持病を持っている人と、その時代に水俣という地で生まれたがために後天的に水俣病になった人の間には、病気のかかり方に関して本来差異があるはずなのですが、アリストテレスの理論ではその差異について説明することができないのです。これは指摘としてはその通りなのですが、紙面を割いて批判するような論点でもないと私は思うのです。先天的な持病を持って生まれてきたにせよ、後天的に水俣病にかかったにせよ、本人には責任がないはずなのです。にもかかわらず、そういった自分ではどうにもできない要因によって悪徳のレッテルが貼られてしまう点こそが理不尽な帰結として本来批判されるべきなのではないでしょうか。

また高橋久一郎氏は、アリストテレス研究者のフィリッパ・フートの説明に対して、ハンディキャップを抱えていることが悪徳であるという批判があることについて指摘しています。これは病気によってハンディキャップを抱えることが悪徳であることを含意すると読み取れると思います。

高橋氏はその反論として、「悪いところを見て責めるのではなく、いいところを見て褒めよう」と述べていますが、これは明らかに話のすり替えです。「本人に責任のないハンディキャップ(病気)を持っていることが悪徳なのか」という疑問(批判)の答えになっていません。

また、話の途中で、これはアリストテレスに由来する徳倫理学だけに当てはまる批判ではなく、カント倫理学や功利主義にも同じ批判が当てはまることを指摘しています。なぜこの批判がカント倫理学にも当てはまるのか、(論拠も典拠も記されておらず)私にはさっぱり分かりません。

カントにとって健康とは

カントはよきものの例として以下の四つを挙げています。

倫理的善さ非利己的な意志(善意志)
才能に関する良さ理解力、既知、判断力など
気質(性格)に関する良さ果断、勇敢、根気など
運の良さ権力、富、名誉、健康など

ここから分かるように、カントによって健康はよいものと見なされているのですが、同時に道徳的な善さからは明確に区別されているのです。

道徳的な善さが絶対的である一方で、健康の良さは制限的なよさしか持たないのです。その理由についてカントは以下のように説明しています。

権力、富、名誉、そして健康さえも、また生活全体の安泰、及び、自分の境遇についての満足など、幸福の名で呼ばれているものも人を後押しするものであるが、それによって人はしばしば傲慢にもさせるのである。(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』)

権力、富、名誉、健康といったものは、多くの場合は、幸福に寄与するかもしれませんが、それは人を傲慢にさせることにもなりかねないのです。むしろ、これらの面で秀でていればいるほど傲慢になってしまうリスクも抱え込むことになり、また、実際にとりわけ権力を持った者がそうなってしまった場合には、その悪しき影響は甚大なものとなるのではないでしょうか。そう考えると、健康を含めた、運の良さと呼ばれるものは、諸刃の剣と言えるのかもしれません。

カントに言わせれば、素晴らしい意志があってはじめて、健康などの徳目は望ましい方向に発揮されるのです。同じことを別用に表現すれば、健康(を保つこと)は善意志によって求められるべきものなのです。

そして、この善意志が発動した時点でそこに倫理的価値が見いだされるのであって、その試みが実を結ぶかどうか、つまり、実際にその人が健康になれるかどうかということは倫理的問題にはならないのです。 

善い意志は宝石のように、まことに自分だけで、その十分な価値を自身のうちに持ち、光り輝くのである。役に立つとか、あるいは成果がないといったことは、この価値に何も増さず、何も減ずることはないのである。(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』)

ウィルスに感染しないことは意志したからといってできるようなものではありません。他方で、ウィルスに感染しないように努めることは誰もができるはずなのです。この努力しようとする意志のうちに倫理的善が存するのです。そして、その合わせ鏡として、すべきことであり、かつ、やろうとすればできるはずのことなのに、それをしようとしない意志のうちに倫理的悪は存するのです。

さいごに

もし細心の注意を払っていたのに感染してしまったのであれば、それは運が悪かったと捉えるべきであり、自分自身を責めるようなことはしないでほしいのです。また、ウィルスに感染したという一点だけを切り取って、そこに至るプロセスを考慮に入れずに他者を批判するようなこともまたやめてほしいと思います。

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