先日アカデミー賞の授賞式で、ウィル・スミスが妻の病気をネタにしたクリス・ロックを平手打ちするという事件がありました。
これに対してさまざまな意見があります。例えば、ウィル・スミスについて「殴ったことはよくない」でも「妻気持ちは分かる」などや、クリス・ロックについて「病気をネタにして笑いを取ろうとするのはよくない」でも「殴られた後の冷静な対応は流石」等々。
私が関心を寄せるのは、いつものように倫理性についてです。具体的にはウィル・スミスの行動の倫理性についてです。
ウィル・スミスの行動の倫理性とは
私はこのニュースを目にしたときに、カントの以下の言葉が思い浮かびました。
怒るべきか、怒るべきでないかを冷静に反省しうるほどに情動を意のままにできるというのは、何か矛盾したことのように思える。(カント『人間学』)
カントの指摘するとおり、本人が「怒ろうか?怒るまいか?」と冷静に熟慮している時点で、本当の意味で怒っているとは言えないでしょう。真に怒っているのであれば、その人は情動に突き動かされている状態と言えます。カントは「情動」については以下のように説明しています。
情動とは、心の落ち着き(自分を支配する心)が失われるような、感情による奇襲である。情動はそのため急性である。すなわち反省を不可能にするような感情の度合いにまで急速に高まる現象なのである。(カント『人間学』)
本当に怒っているのであれば、情動に支配され、自分自身をコントロールすることのできない状態にあることになります。ウィル・スミスもこのような状態であった可能性があるわけです。
もしそうだとすれば、つまり、理性的な判断を下せないような状態であったならば、彼の行為に倫理性は問えないことになります。なぜならカント倫理学の建付けでは、道徳的善にしろ悪にしろ理性のうち、具体的には意志のうちに存するからです。理性が働いていない以上は、その人は別用に行動する機会は開かれていなかったことになるのです。避けることができなかったことに道徳的責任は生じません。
このような説明に納得できるでしょうか。
アリストテレスの立場
アリストテレス、または、彼の賛同者であれば、おそらく別用に考えると思います。彼らは、自分の妻を侮辱された際に理性的でいられない、取り乱してしまうような人は、中庸を欠いていると非難するでしょう。
確かにウィル・スミスは中庸を欠いていたと言えるかもしれません。
カントはアリストテレスの中庸論を批判する文脈で以下のように述べています。
徳の原則を遵奉する者が、確かに怜悧が指図する以上、あるいは以外の実行によって、過ち(peccatum)を犯すことはありうるが、彼がこれらの原則を厳格に墨守する限りにおいては、悪徳(vitium)を犯すことはないのである。(カント『人倫の形而上学』)
カントの言う通りに、私たちは能力的な落ち度と道徳的な落ち度は区別すべきなのではないでしょうか。ウィル・スミスのうちには確かに落ち度があったのかもしれません。しかし、それが直ちに倫理的な落ち度であるわけではないはずなのです。
さいごに
(アリストテレスはしばしば「エリート主義」と批判されることと被るのですが)私のような能力的に低い人間は、彼のような立場にどうしても賛同できないのです。だって、いくら善いことをしようとしても、悪ばかりしてしまうことになるのですからです。反対にカントは、「善いことをする意志さえれば、君は必ずそれをなすことができる」と言ってくれる。そして、理性の介在していない行為には善も悪もない(自分でも知らず知らずのうちに悪を犯しているなどということはない)と言ってくれる。ここに私は魅力を感じるのです。