(new!) オンライン講座の受講生募集

4月26日(金)から、NHKカルチャーセンターでオンライン講座を担当します。カントや倫理学に対する事前知識があっても、なくても構いません。対話形式で進めるので、みなさんの理解度や関心にそって講座を進めていきます。

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批判哲学の射程

カント倫理学

カントの哲学は「批判哲学」と称されます。ここで言う批判とは、特定の人を批判することではなく、人間一般の理性能力を批判的に吟味することが意図されているのです。人間理性の限界にまつわる哲学とも言えます。

理性の有する「限界」の意味

私たちの理性には限界があります。そして、ここで言われる「限界」というのは、二つの意味で捉えることができます。

理性に知りえない領域がある

カントの「理性批判」の文脈で、多くの場合に意図されているのはこちらの意味だと思います。

カントが登場する以前、人々は「神は〇〇だ」とか「死後の世界は〇〇だ」などといった、本来は知りえないはずのことをあたかも知っているかのように語っていました。カントはそういった(カントの用語で言う「超越的な」)事柄については知りえないはずであることを説いたのです。

というか現代のドイツでも、信仰心の強い人は、真顔で神や死後の世界についてあたかも自分が見たことがあるかのような態度で語るわけです。まあ日本にもそういった人はいるでしょう。カントはそんな彼らに対し「知りえないことについては知りませんと言うべき」という本来であれば当たり前の正論を吐くわけです。

理性は判断を誤る

「理性批判」の文脈であまり焦点を当てられることがなく、しかしながら、私がここで強調したいのは、むしろこちらの意味です。

感性によって人は惑わされるということはあります。例えば、見た目から(カントの用語で言えば「仮象」によって)決めつけ、誤りを犯してしまうということがあります。しかし、感性自体が判断を下すわけではありません。理性(もしくは広義の悟性)が判断を下し、そこに誤謬が含まれる可能性が出てくるのです。

ここで「動物、もっといえば極めて原始的な生物も、見た目に惑わされて誤謬を犯すことがあるのでは?(感性のみから誤謬を犯すこともあるのでは?)」という疑問を持つ人がいるかもしれません。それはその通りで、だから擬態動物などは相手を騙して捕食することができるわけです。ただここで問題になっているのは、その存在が誤謬を犯すかどうかではなく、その存在の判断に誤謬が含まれることである点であることを理解していただきたいと思います。

どんなに優秀な人でも、それどころか偉大な先哲カントであろうとも、判断を誤る可能性があるのです。ましてや一般の私たちなどなおさらなわけです。そう考えると、とりわけ他人のミスには寛容になるべきであると私などは思うのです。

批判哲学の倫理学における意味

カントが批判哲学を論じたこと自体が、非常に画期的で有意深いものであったと私などは思うのですが、さらにもう一段カントのすごい点は、彼は私たちには知りえない領域があること、そして、誤謬を犯してしまう存在であることを認めながらも、その至らなさが道徳的善をなすことができない、反対に道徳的悪を犯してしまう直接の理由にはならないことを説いた点です。

もう少し正確に言うと、カントは道徳判断というのものは、確かに客観的には誤謬が介在する可能性があるものの、主観的には誤りようがないと論じたのです。道徳性が問題である限り、(普遍化の思考実験によって客観的な視点に立った上での)主観的な正しさへの確信があれば、それで十分なのです。

さいごに

カントは、私のような判断ミスばかりしている人間にも、それは道徳的悪ではないこと、そして、その可能性が常に開かれていることを諭してくれるのです。そこまでしてもらったら無下にできないじゃないですか。